07回 創作メモ 韓馥について

韓馥 字を文節といい、潁川の人

当時、渤海郡には董卓と対立し出奔していた袁紹が、太守として入っていた。韓馥は元々袁氏に仕えた役人であったが (魏志袁紹伝」)、董卓の意向を忖度して従事を数人使い、袁紹を監視した (魏志武帝紀」が引く『英雄記』)

はじめは袁紹の監視のために任命されました。

袁紹渤海太守。韓馥は冀州

橋瑁は三公の公文書を偽造し、各国に配布して董卓の罪悪を述べ、諸侯の決起を促そうとした。韓馥が袁氏に付くか董卓に付くか迷ったが、従事の劉子恵は韓馥の弱気な態度を諌めると共に、真っ先に行動を起こさず「他に決起をする者が出たら、その時に同調すればよいだろう」と進言した。韓馥は渤海袁紹に手紙を送り、董卓の悪事を伝えその挙兵を認めた (魏志武帝紀」が引く『英雄記』)。

橋瑁が三公の公文書を偽装して、全国各地へ董卓打倒の檄文を飛ばしました。
のちの反董卓兗州グループ。参加者は張邈、橋瑁、袁遣、鮑信、劉岱、張超、臧洪、そして曹操

初平元年 (190年) 同年2月、董卓長安への遷都を決めたため、盟主である袁紹は河内に、韓馥も鄴に駐屯したが、董卓軍が強力であったため、敢えて行動を起こそうとはしなかった(魏志武帝紀」)

愚図なのが見て取れる。

後に決起。反董卓冀州グループ。参加者は袁紹、王匡、韓馥、

袁紹と共に、皇族で幽州牧の劉虞を擁立しようと計画したが、袁術曹操らがこれに反対した (魏志袁術伝」・魏志武帝紀)。翌2年 (191年) 春には劉虞本人に擁立を持ちかけたが、劉虞に固辞されたため失敗した (魏志武帝紀」・「公孫瓚伝」)。また官爵を発行させるため、劉虞に尚書の事務を執り行なわせようとしたが、これも拒絶された (魏志公孫瓚伝」)

兗州グループは洛陽の献帝に対して、幽州の劉虞をたてようとする。
任免権だけでも互角にならないとどうしようもないから。任免権があれば官爵を与える・奪うというアメとムチで諸侯を統制できるから。
しかし、袁術曹操は反対、劉虞からも袖にされる。

当時の袁紹軍は補給に苦しんでおり、物資の供給を韓馥に依存していた。このため逢紀はこの機会に公孫瓚を利用し、冀州を韓馥から奪い取るための策略を袁紹に具申した。袁紹はそれを容れて公孫瓚と連絡を取り、韓馥に軍事的な圧力をかけたという (魏志袁紹伝」が引く『英雄記』)
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麴義は韓馥の将だったが、この前後に部曲を引き連れて袁紹に寝返ったという (『後漢書』「袁紹伝」)。また、張楊於夫羅もこの時期に袁紹へ帰服したという (魏志張楊伝」・魏志袁紹伝」が引く『九州春秋』)。

荊州南陽郡の人。
『英雄記』によれば、逢紀は袁紹に「公孫瓚に韓馥を攻めさせて、韓馥が臆病になったところを、使者を派遣して利害損得を説明させれば、韓馥は冀州を (袁紹に) 譲るでしょう。」と語った。袁紹が、この提案に従ったところ、公孫瓚は韓馥を攻撃した。

この期を逃すまいと考えた袁紹は韓馥の動揺に付け込み、使者として荀諶・高幹らを派遣し韓馥に冀州を譲るよう説得させた (魏志袁紹伝」)。韓馥は元々臆病な性格であったため、荀諶の説得を聞き、この提案を受け入れる気になったという (魏志袁紹伝」)。耿武・閔純・李歴らが、現時点での冀州の軍事力が袁紹を上回っている事を理由に韓馥を諫止したが、韓馥は聞き入れなかった (魏志袁紹伝」)。また、趙浮・程奐が兵を出して袁紹に抵抗したいと願い出たが、韓馥はこれも聞かず、冀州袁紹に譲ってしまった。同年秋7月の事だった (魏志武帝紀」)。

韓馥配下でも反対した人はいた。
麴義は韓馥を見限り袁紹に帰順。

これより前、韓馥は騎兵を故郷である潁川に派遣し、同郷の荀氏一門(荀彧ら) を冀州に招いていたが、荀彧が到着した時には、既に袁紹冀州を奪われた後であったという (魏志「荀彧伝」)。

韓馥は奮威将軍に任命されたものの実権がなかったという (『後漢書』「袁紹伝」)。韓馥の従事のほとんどが韓馥を見捨てる中、耿武・閔純だけは袁紹を暗殺しようとしたが、袁紹に採り立てられた田豊により殺害された (『後漢書』「袁紹伝」が引く『英雄記』)。

田豊冀州鉅鹿郡のひと。張角と同郷
田豊は、袁紹に先見性のある進言を何度も行なったが、剛直な性格で歯に衣着せぬ厳しい発言をしたため、次第に袁紹に疎まれるようになった。この点については、曹操軍の荀彧が「剛情で上に逆らう」と指摘した通りである。また、『三国志』の注釈者である裴松之も「主君を誤ったがため、忠節を尽くして死ななければならなかった」と慨嘆している。

田豊は剛直と言うイメージは確かにある

やがて韓馥は袁紹の勢いを恐れ、袁紹の下を去り張邈の下に身を寄せた。
その後、張邈と袁紹の使者が会見している時、袁紹の使者が張邈に耳打ちするのを見た韓馥は、殺されるのではと勘違いし厠で自殺してしまった (魏志袁紹伝」)。

張邈が袁紹を恐れる遠因になりました。


Wikipediaより抜粋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E9%A6%A5


英雄記に曰く:「袁紹は河内の朱漢を都官従事に任じた。朱漢は以前に韓馥冷遇されていたため内心怨恨を抱いていた。且つ、袁紹に気に入られたと思っていた。勝手に城郭の守備兵を出勤させて韓馥の館を包囲し、刀を抜いて屋根に登った。韓馥は逃走して望楼に登ったが、韓馥の長男は捕らえられ、両足を打ち砕かれた。
袁紹はすぐさま朱漢を捕らえて処刑したが、韓馥はそれでも心配と恐怖が止まず、その結果、袁紹に手紙を送り、辞去を申し出た。(魏志袁紹伝」が引く『英雄記』)

策謀をもって袁紹冀州を取られた人のお話。
臆病な性格だったと伝えられてることから、いずれはこーなる定めだったと思うが、張邈に身を寄せたことがミソ。