07回 創作メモ 名士について (1)

水利事業
後漢より、水利や建設は、汝南や頴川でたくさん行われた。
後漢書』杜詩伝に、建武七年、南陽太守となって、水利したことがある。建安十三年、鄧晨が南陽太守となり、汝南の平輿の人・許楊ととに堤防をなおした。
両漢のあいだで、気候の変化があった。『漢書』翟方進伝にある。汝南の堤防がくずれ、水害がふえたと。王莽のとき、ぎゃくに乾燥した。
学者らはいう。両漢で気候が、温暖から寒冷にかわり、黄河に影響した。気候が寒冷になると、農業がうまくゆかない。明帝のとき『後漢書』鮑昱伝で、汝南太守となって決壊をなおす。和帝のとき、『後漢書』何敞伝で、汝南太守となり堤防をなおした。農地がふえた。
水利事業により、汝潁は開墾され、農業が発展できた。

なるほど

名士袁紹
袁紹は士人にへりくだり、濮陽長として「清名」を得た。辟命に応ぜず、宦官に目をつけられた。「八厨」張邈に交わる。荀攸伝にひく『漢紀』で、何顒とまじわる。党錮のとき、危険を冒して、党人をたすけた。宦官を殺した。
袁紹の宦官殺害はムゴいが、行動理由は奥ぶかい。桓帝の宦官のときから、党人名士は苦しんだ。袁紹は、宦官を全滅させることで、皇帝権力を再起不能にした。袁紹は政治資本をあつめて、朝野から中心人物だと見なされた。

まぁ、そうだよね

名士曹操
曹操がどの身分に属するか。この問題は、議論がおおい。宦官の階層を代表する、庶族地主を代表するなど。しかし曹操がいたのは、士族的な名士階層が凝固する時期である。曹操を名士としてあつかう。

曹操が獲得した、名声と身分
人物評が、発展した。曹操は、橋玄に「命世」といわれた。「命世」は「名世」のことで、『孟子』公孫丑にある。「命世」は曹操のキーワードになった。頴川の趙儼、辛毗、陳羣、杜襲らは、「命世」する曹操に帰順した。趙儼伝にある。

趙儼は繁欽に向かって言った。
「曹鎮東将軍は時運に応じ一世で名をあげられたからには、中華を正し救われるに違いない。」

命世とは、その時代に最もすぐれていて名高いこと。

曹操兗州に迎えられ、兗州を保ったのも、「命世」ゆえ。曹操橋玄の祭りを、怠らなかった。
何顒や許劭にも、曹操は「英雄」と言われた。李膺は、子の李瓚に「曹操につけ」といった。

橋玄の祭りを、怠らなかった。」事は知らない。
先の趙儼の例でも杜襲の例でも、献帝を許都に迎えてからの話で、兗州を保てた事とは関係ないのでは?

李膺の子は李瓚といい、東平の相にまでなった。曹操がまだ微賤の頃、李瓚は彼を高く評価し、臨終の際、子の李宣らに遺言するに、「世の中は今に乱れるだろう。天下の英雄のなかで曹操に過ぎるものはいない。張孟卓 (張邈) はわしと仲が善いし、袁本初 (袁紹) はそなたの母方の親戚ではあるけども決して彼らを頼るな。必ず曹どのに身を寄せよ」といった。子供らは遺言に従い、皆、乱世を生き延びた。

曹操が名士であることは、当時の普遍的な認識だった。『三国志』荀彧伝にひく『平原禰衡伝』で、曹操と荀彧と趙融が、名士として並んでいる。

初平2年 (191年)、黒山軍の反乱をきっかけに曹操袁紹によって東郡太守任命を上奏された。この時期、曹操を慕って多くの勇将や策士が彼の下に集まった。この頃、曹操胡毋班の遺族とともに王匡を殺害した。
初平3年 (192年) 春、黒山軍の本拠地を攻め、眭固匈奴於夫羅に大勝した。同年夏4月、董卓呂布暗殺された。
また、
兗州刺史劉岱青州から来た黄巾軍に殺された。そこで鮑信・万潜らは曹操を迎えて兗州牧を引き受けさせた (朝廷より兗州刺史に任命された金尚は追い返した)。


名士階層は、声望、官爵、経済、地縁によって、士族階層となり、新しい時代をひらく


wikipediaより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%9A%E9%8C%AE%E3%81%AE%E7%A6%81

党錮の禁が起こると、清流派の名士達は評価の高い天下の名士にそれぞれ位階、称号をつけて、位階を上から『三君』『八俊』『八顧』『八及』『八廚』と呼んだ。

『君』とは一世で宗主として仰ぐ者のこと、
『俊』とは英才を持った者のこと、
『顧』とは徳を持ち人々を導く者のこと、
『及』とは人々を導き宗主を追う者のこと、
『廚』とは財をなげうって人々を救う者のことを示す。

『三君』 竇武 劉淑 陳蕃
『八俊』 李膺 荀昱 杜密 王暢 劉祐 魏朗 趙典 朱宇
『八顧』 郭泰 宗慈 巴粛 夏馥 范滂 尹勲 蔡衍 羊陟
『八及』 張倹 岑晊 劉表 陳翔 孔昱 苑康 檀敷 翟超
『八廚』 度尚 張邈 王考 劉儒 胡毋班 秦周 蕃向 王章


人物評価(Wikipedia)
許劭
18歳のときに謝甄の人物評価を受け、その後は自らも人物批評家としての活動を行うようになった (『三国志』)。若い頃は従兄と共に、月に一度に「月旦評」と呼ばれる人物評論会を開いていた (『後漢書』)。彼の影響力は絶大で、彼に称賛された者は出世し、称賛されなければ没落の道を辿ったといわれる (『太平御覧』) など、人物批評家として当時の一大家であった。現代においても、この許劭の故事に由来し、「月旦評」は人物の批評を意味するようになった。
同郷の袁紹は、許劭から批判されることを怖れて、その華美な装いを改めたという (『後漢書』)。また、若い頃の曹操橋玄の薦めにより彼と会って自分を評価してもらい、曹操はその人物評を聞いて、相当に喜んだという (『三国志』)。

橋玄
橋玄は、洛陽に召されて間もなく無名の曹操の訪問を受けて (175年 曹操20歳の頃かな?) その様子に感嘆し、「私は天下の名士を多く見てきたが、君のような者はいなかった。君は善く自らを持せよ。私は老いた、願わくば妻子を託したいものだ」と語っている。このため曹操の名は知れ渡ることになった。建安7年 (202年)、曹操が軍を率いて橋玄の墓の傍を通ったとき、人をやって太牢の儀礼でもって橋玄を祀り、自ら祭祀の文を奉げている。

橋玄の祭りを怠らなかった。ってこのことかな?
っていうか、曹操にはこの種の逸話が結構あるなぁ。と

曹操は、20歳のときに孝廉に推挙され、郎となった後、洛陽北部尉・頓丘県令・議郎を歴任した。

Wikipediaの引用だからあれだけど、どうやら後漢書 橋玄伝の記載らしい
とにかく、曹操20歳の無名時代に「天下の名士を多く見てきたが、君のような者はいなかった」と言わしめる曹操か・・・?
たしか、正史では「惜しむらくは君には名声がない。許劭に人物評してもらって名声を得るといいだろう」みたいなコトを言ったんじゃなかったかな?
前半は魏書の記載で、後半は世語の記載か。魏書 (王沈) の話だったら眉唾と考えていいかも。

後漢書の許劭伝では
曹操がまだ無名だった頃、常に辞を低くし、礼を厚くし、会いたいと求めてきた。 劭はその人物をいやしいと見て答えなかったが、操は隙をうかがって劭を脅した。
劭はやむを得ず言った。「君は清平の奸賊、乱世の英雄だ」
操は大いに悦んで去った。
と言っている。

龐統なんかも人物評が好きだっららしいし、まぁ、そーいうことなんだろうな


そこで、陳宮だけど、陳宮は名士だったのか?

陳宮 字は公台。兗州東郡東武陽県の人
Wikipediaでは
「勇敢で信念を曲げない人柄であり、地元の顔役として若いころから天下の英雄や高名な学者たちと交友を結んで自分を高めた」
とあるが、三国志 呂布伝では典略をひいて
「剛直で気迫に溢れた人。天下の知名の士と交友を結んだ。」とあるから、Wikipediaの記述は不正確を思われる。が、名士だったのかなぁとは思う。
加えて言うならば、「天下の知名の士とは交際したけど、特に仲良くなった人もいないし、誰かから認められたわけでもない」とも読める。

192年 兗州刺史劉岱黄巾軍に敗れて戦死すると、「覇王の業」のために兗州を傘下に治めるよう曹操に進言した。曹操の同意を得た陳宮は、先行して兗州に赴き、別駕や治中などを説得して回った。この結果、済北の相鮑信らが陳宮の意見に賛同したため、曹操兗州牧に迎えることができた。
から、功労者ですね。

衛茲は兗州陳留郡襄邑県の人
張邈は兗州東平郡寿張県の人
程昱は兗州東郡東阿県の人
完全に同郷の人は見つけられないなぁ

話がちょっと逸れる

許汜のお話
呂布滅亡後、許汜は荊州劉表を頼りその客人となった。数年後ある宴席で、劉表劉備と天下の人物を議論する機会があったため、許汜は一時呂布の下で同僚となった陳登を「横暴な(「豪気不除」)人間」と非難した。劉備が非難の理由を尋ねると、許汜は「陳登は客人を持て成す心がない。私と長い間口をきいてくれず、自分は寝台で休み、私を床に寝かせた」と答えた。それに対し劉備が「貴方は国士としての名声がありながら、宅地を求めるばかりで、碌な進言もしなかった。陳登はそれを忌み嫌ったのです。私なら、自分は寝台どころか百尺の楼上に寝て、貴方を床どころか更地に寝かせますな(陳登は、まだ優しい)。」と許汜の小人振りを痛烈に批判したため、劉表は大笑いした。

名声はあるが何の役にも立たない人。
曹操には用いられないだろうな。