07回 創作メモ 二袁相克

前哨戦は191年の襄陽の戦い
袁紹と結んだ劉表が、孫堅と戦う。孫堅が死亡。
この戦いの遠因は朱儁 

朱儁董卓から離反、洛陽を出奔し、兵を率いて荊州南陽)つまり袁術の下へやってきた。どういう経緯があったか不明だが、朱儁は中牟に駐屯して北(から来る董卓軍)に備え、袁術は背後に憂いを持つことなく南方の劉表討伐乗りだすことになる。袁術は対劉表戦を起こし、その総帥として孫堅を派遣した。劉表董卓から任命された荊州刺史であるだけでなく、この歳の後半、豫州刺史の任命を機に生じた袁紹袁術の争いで袁紹側についていた。また、この頃までに荊州中部の有力豪族蔡瑁<さいぼう>・赫*萌*越<かいえつ>らの輔弼を受け、まつろわぬ他の豪族らを賊として誅戮し兵力を吸収、襄陽を拠点に群雄としてやっていけるようになっていたのである。190年から191年前半までは必要性の無かった劉表の排除は、この時行わなければならない状況となっていた。

ニセクロさんの分析 袁術くんHiより抜粋


周昂
袁紹の命を受け、陽城(袁術の指示で董卓と戦っていた孫堅の拠点)を攻め落とす。袁術孫堅公孫越を派遣して反撃してくると、迎え撃って公孫越を討った。後に九江太守となるが、袁術軍の孫賁(そんほん)に攻められ、陰陵で敗れた。

袁紹派の周昕(? - 196)、周昂、周喁の動き。ちなみに3人は兄弟

丹陽太守
周昕 (袁紹)  vs 孫賁
194年 孫賁の勝ち (資治通鑑による)

九江太守
周昂 (袁紹) vs 袁術
袁術不戦勝
193年 寿春攻略戦の最中、外交的孤立のため
周昂 (袁紹) vs 孫賁
193-194年 孫賁の勝ち。周昂は陰陵で敗れた。

豫州刺史・牧 (三国漢季方鎮年表 清萬斯同撰から抜粋)
189 黄琬 (牧・朝廷) 孔伷 (朝廷)
190 孔伷 (朝廷) 孫堅 (袁術) 冬に死亡
191 周昂 (袁紹)
192 郭貢 (?) 周昂 (袁紹) 孫賁 (袁術)
193 郭貢 (?)
194 郭貢 (?) 劉備 (陶謙
195
196 劉備 (牧・曹操)
202 陰夔 (曹操)
まぁ、孫堅孫賁 → 郭貢だと思うよな。

揚州刺史 (三国漢季方鎮年表 清萬斯同撰から抜粋)
192 陳温 (朝廷) 袁遺 (袁紹) 袁術が討つ 陳瑀 (袁術)
193 陳瑀 (袁術)
194 劉繇 (朝廷) 孫策 (懐義将軍 / 袁術)

袁紹がちょっかいを出して、ほぼ全敗。
袁紹ってのは、自分が主役でないと気が済まないタイプに見える、袁術にこれほどちょっかいを出すとは。
後に、必要以上に力を誇示したい面を認める。臧洪の例とか

二袁の戦いは袁紹によって引き起こされました。