第12回 劉巴 (創作メモ)

・ [正史解説] 劉巴の生涯
・ [逸話紹介] 周不疑の才能を認める
・ [逸話紹介] 張飛を凹ませる?
・ [逸話紹介] 諸葛亮が軽口を言う


劉巴 字: 子初 ?- 222年 零陵烝陽の人
(5-51,233,249,299,339,393,464)

三国志の記述おさらい

先主伝 (5-51)
劉巴は昔から恨みに思っていた人物であったが、高官に就け、その才能を発揮させた。

劉表が没して曹操が南進すると人々はみな劉備に従ったが、劉巴だけは曹操のもとに赴いた。
・ 劉巴曹操の命を受けて江南三郡を鎮撫した。劉備が江南三郡を攻略すると、劉巴は交阯に逃走した。
劉璋劉備を迎えようとすると「山林に虎を放つようなものです」と反対した。
劉備劉巴を嫌うのは上記3点ぐらいだな。
両方とも、劉巴の言い分は理解できる。

劉巴は漢の臣下です。劉備には降れません。
プライドの高さが垣間見れる。名士としてのプライドかそれとも漢の臣下としてのプライドか。

伊籍伝 (5-233)
諸葛亮、法正、劉巴李厳とともに「蜀科」(蜀の法律) を作った。
「蜀科」の制定は、この5人の力による。

蜀科を作りました。

楊儀伝 (5-299)
楊儀尚書令の劉巴とうまくいかなかったので、はるか遠方の弘農太守に左遷された。

尚書は「中国の官名。秦 (しん) 代に設置され、初めは天子の文書の授受をつかさどる小官だったが、しだいに地位が上がり、唐代~明代には六部の長官となった。」
後漢では大司馬が太尉に改称されたが,皇帝側近の尚書が丞相の職務を遂行するようになった。 魏・晋時代から丞相の名が復活し宰相として機能したが,後漢以来の,皇帝直属の秘書官室である尚書が政務遂行の中心になる傾向が推し進められ,それまでの三公が権力を失っていき,尚書の最高官の録尚書事が宰相の権力を掌握した。」

楊儀は癖が強いからなぁ。

来敏伝 (5-339)

馬忠伝 (5-393)

来敏伝と馬忠伝には取り立てて逸話はない

楊戯伝 李漢輔臣賛 (5-464)
尚書 (劉巴) は清潔高尚であって、行いを慎み身を整え、志高く道義をつらぬき、古典を味読し、その高雅な格調にのっとり、古人と肩を並べることを願った。
劉子初を賛う。

 称賛してますよと。

三国志の記述は以上。 

 

■ 正史を読んだ雑感
裴松之の注の全部が「零陵先賢伝」であり、なんか趙雲と重なる (趙雲の裴注もすべて「趙雲別伝」である)。
「零陵先賢伝」は、隋志によれば全1巻。零陵出身者の伝記をまとめたものらしい。
零陵出身者は上げ、そのほかは下げの論調が目立ち、史書としての信頼性にややぐ疑問が残る。

※ 以下は「零陵先賢伝」を除いた印象
陳寿の記載は本当に少なく、その点も趙雲と被る。
しかし、劉和の場合は筋金入りの士大夫 (豪族・貴族) である。祖父 劉曜 (交州蒼梧郡太守)、父 劉祥 (荊州江夏郡太守) ともに郡太守を務めている。

父 劉祥は (袁術麾下の) 孫堅に協力的で、兵糧の供給に応じなかった南陽郡の張咨を共に殺害し、これが後に多くの豪族から怨まれる原因となって自らも豪族らに攻められて戦闘になり、戦死した。

この業は子の劉巴にもおよび、劉表から命を狙われることになる。

袁紹劉表。つまり袁紹グループ。
対して、袁術 - 孫堅 - 劉祥 - 劉巴袁術グループ。
劉巴もまた二袁相克に翻弄された一人である。

この後は、冒頭の先主伝の記載を参照のこと。

劉巴は交阯より蜀に至った。

許靖と同じパターンだな。戦乱を避けて益州へ。

思わぬ危難 (劉備荊州侵攻と占領のコト) に遭い辛酸を舐めましたが、信義 (正しい道 = 漢に仕えること) に心を寄せる民衆や、味方になって協力してくれる人々 (=反劉備の人々) に出会い、天の心に従い、物事の本質を知り、人生とはままならぬものと知りました。もしも道に窮し私の命数が尽きたなら、滄海 (=大海原) に命を託し (つまり、海に身を投げるよってこと)、再び荊州を見ることはないでしょう。(零陵先賢伝)

よっぽど劉備に仕えるのが嫌だった。
漢に仕えたかった。

劉備益州を定めると劉巴は謝罪したが、劉備は責めなかった。しかも諸葛孔明がしばしば称薦した為、劉備劉巴を左将軍西曹掾とした。
零陵先賢伝によれば、このとき劉備は、兵士に劉巴を殺すなと命令し、劉巴の罪を咎めず、大喜びだったそうだ。

諸葛亮が推薦するんだから、一角の人物であったことが伺える。
馬謖以外は見誤ったことがないような印象がある。その馬謖だって一回の失敗で斬首されたわけだし、生きながらえていたならどうなったかわからない。

建安二十四年 (219年)、劉備は漢中王となると劉巴尚書とし、後に法正に代えて尚書令とした。

文書を司るところ。大出世だね。やったね。
彼がそれを望んでいたとは思えないが・・・。

劉巴は質素な生活を心掛け、田畑を経営して財産を増やそうとしなかった。そして自ら進んで劉備に仕えたのではなかったので、忠誠を疑われないように慎みと沈黙を守り、公務が終わると他人と私的な交際は結ばないようにし、公事でなければ発言しなかった。

蜀漢賈詡だね。
賈詡も交際を絶っていた。

劉備が尊号を称し (僭称し)、帝位に即いたとき神に捧げた文は彼の筆によるものであった。

劉備が帝位に就くことを反対したと零陵先賢伝にある。
尚書令の劉巴、主簿の雍茂、州前部司馬の費詩の三人が反対した。

見解の別れる所。
a.  命令されれば嫌々でも書くよね。仕事だもん
b. 劉備の帝位簒奪に賛成か、どうでもよかった。
どっちもありそうだが、これまでの彼の歩みを見ると積極的に賛成していたとは思えない。

ネットを見ると案の定暗殺説まである。
それもありそうだが小説だなぁ。

まぁ控えめに見ても、意にそわぬことでも仕事と割り切るしかなかったんだろうな。
オレ個人の印象としては、劉巴は漢の忠臣です。

章武二年 (222年) に卒した。
卒した後、魏の尚書僕射陳羣が丞相諸葛亮に書簡を与えて劉巴の消息を問うたが、劉君子初と称し、甚だ敬重した。

陳羣から問い合わせの手紙が届くところを見ると、その名声は中原まで広がっていたことが伺える。
劉巴は正真正銘の名士です

■ 感想

人生とはままならぬもの。
思い通りに進まない自らの待遇に忸怩たる思いを感じていたのではないか?

傷心のルサンチマンという言葉が似合いそう。

 

■ 掾とは
劉巴が就いた丞相掾、西曹掾とは

三国志の時代の「丞相」についてだが、丞相は宰相というだけあって独自の官庁を持ち、多数の部下を抱えていた。その官庁は「丞相府」と呼ばれており、部下としては「長史」「主簿」「掾」「属」「令史」などがあった。
中でも「長史」(丞相長史) というのは丞相府内における次官のような存在で、かなり格の高い人物が就任している
それ以下の「丞相主簿」「丞相掾」「丞相属」「丞相令史」については、府のいくつかの部局 (当時「曹」と呼ばれていた) ごとに配置され、それぞれ担当の職務に当たっていたようだ。

劉巴劉備が嫌いだったのか?

難しいが、まず士大夫の中にはこういうタイプもいたことは事実と思われる。
曹操もこれには苦労した。許劭とか宗承とか。一方まったく逆のタイプとして孔融が挙げられる。太史慈とか劉備とか、ほぼ無名の兵卒とも親しんだ。
名士層の共通意識ではないにせよ、名士の中には出仕が卑しいものを見下す風潮はあったようだ。
だから好んでいなかったのは確かだろうと思う。少なくとも 漢 (曹操) > 劉備であったことは間違いない (冒頭の先主伝参照)。ただ誤解して欲しくないのは、劉巴が認めていたのは漢であって曹操ではないというコト。
劉備をただの兵卒とみていた可能性もあると思う。まぁ、これも劉巴しか知らないな。

■ (劉巴は) なぜ自殺しなかったのか?

益州陥落の際、王累は自決して反対の意を貫いた。
このとき反対したのは王累、黄権劉巴の3人。
黄権劉巴は生きながらえた。なぜ劉巴は自決しなかったのか?

儒教の影響があるかもしれない。
孔子は自殺に対して両義的な態度をとっている。
・自殺否定的側面 ‐ 孔子は自己破壊的行為は、身体が親から与えられたものであるが故に 咎められるべきとした → 「親からもらった大事な身体に」と言う人の発想はここからきている。例えば三国志夏侯惇「父之精母之血不可棄也」
・自殺肯定的側面 ‐ 「身を殺して以て仁を成すこと有り」 ‐ 他者や特定の集団のために、自ら死を持って尽くすことを認めている → 上記の徳 (仁や義) にかなう行動であれば、自殺が認められる。それどころか称賛される。

劉備に屈せず、自殺することが仁や義にかなう行為であるのかどうなのか・・・?
個人的には、仁や義に叛く行為だと思うが難しい。
劉巴の心中をはかり知ることはできそうもないな。
 

■ [逸話紹介] 周不疑の才能を認めるの巻

劉巴が博学だとの評判を聞いた劉先が、周不疑を遣わせて劉巴に就いて学ばせようとしたところ、劉巴
「昔、わたしが荊北を遊学して師門を回りましたが、学んだことと言えば "記問の学" で、おかげで私は、自分の名前を書くことにも苦労してしまうほどでした。
私はに楊朱のような処世の術がなく、墨翟のように時代の要請に応えようとの気概も持ち合わせておりません。

昔「記問の学」自分は無学な輩で、自分の名前さえ書くのに苦労してるんですよ。
楊朱や墨翟のような者ではありません。

お手紙をいただきましたが、鸞鳳の雛であるかのような賢甥を、燕雀の庭で遊ばせたいとか。一体どのように指導すれば宜しいのですか?。
「知識が有るのに知識の無い人にも問い、徳があってもまるでないように振舞う」 というお言葉に対しても恥じ入るばかり、どうしてお引き受けできましょうか」。

「知識があるのに・・・」下りは劉先に対する嫌味だね。
劉先は劉表の部下。劉表に仕えないのと同様、あなた方とはお付き合いできませんよ。といってる。なぜなら、昔命を狙われたことを忘れたわけではないから。
ひとまず周不疑の件はおくとして、謙遜を装いながら実は褒め殺し。
ホントに劉表と、その一派に関わるのが嫌なんだな。
だから、「名前を書くのにも苦労した」なんて見え透いた嫌味を言っている。
という風に読めないこともない。

ちなみに、「知識が有るのに知識の無い人にも問い、徳があってもまるでないように振舞う」の原文は「在れども無きが若く、実つれども虚しきが若く (論語 泰伯編)」。 

 ■ 諸葛亮を論破するの巻

 曹操が九錫だ魏王だと言い出すのは、赤壁後のこと。このお話はそれ以前のお話。
仮に「天子様 = 曹操の意向」だったとしても、賊を打ち払い、天下を再び安定させることは御心に叶うはず。
にもかかわらず、天子様のものである荊州の地を勝手に占領し、我がもの顔の劉備とその一党に、なぜ自分が降ることができるというのか。
まぁ、こんな心境ではなかったかと思います。