【ゆっくり偉人列伝】根本博 前篇 ~居留民4万人、救出作戦~


根本博には2つの大きな功績がある。

一つ目は大東亜戦争において日本降伏時、駐蒙軍司令官として軍命に背いてソ連と戦いを継続し、日本人居留民の命を守り抜き、無事日本に帰還させたこと。

二つ目は、恩義ある蒋介石の要請に応え、法を犯して米国占領下の日本を離れ台湾へ渡航。軍事顧問として中国名「林保源」の名のもとで、金門島の戦いに貢献。中国共産党人民解放軍を撃破。台湾の独立を確定させ、今に至る東アジアの国際秩序の基礎をつくることに貢献したことである。


根本博 (1891 - 1966年)、まずは根本の略歴を見てみたい。

根本博は1891年 (明治24年) 生まれで福島県出身。
陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校を卒業 (23期)。席次は509人中13番。
1922年 (大正11年) 陸軍大学校卒業 (34期)。席次は60人中9番。
酒好きで豪快な人柄だったと言われている。

陸大卒業後、陸軍中央において主に支那畑を歩む。
南京領事館附駐在武官として南京に駐在していた 1927年3月南京事件に遭遇、領事館を襲撃してきた北伐軍暴兵に素手で立ち向かったものの銃剣で刺され、更に二階から飛び降りて脱出を図った際に重傷を負った。
自分が死ぬことで、幣原外交の軟弱さを変えようとしたと後に語っている。


帰国後、1928年6月に起きた満州某重大事件を皮切りに、満蒙問題などの解決のために国策を研究する目的で、石原莞爾、鈴木貞一、村上啓作、武藤章ら陸士21期生から27期生の少壮将校を中心に、同年11月に9名で結成された無名会 (別名・木曜会) に参画する。続いて翌年5月には、軍の改革と人事刷新、統帥の国務からの分離、合法的な国家総動員体制の確立等を目指し、永田鉄山、岡村寧次、小畑敏四郎、板垣征四郎土肥原賢二東條英機山下奉文ら陸士15期から18期生を中心に結成された、二葉会に吸収される形で成立した一夕会に加わった。

1930年 (昭和5年) 8月、中佐として参謀本部支那班長となる。この頃支那班員となったばかりの今井武夫大尉は、当時の根本班長の思い出を戦後回顧している。1931年 (昭和6年) 12月、犬養毅内閣の陸相となった荒木貞夫中将は、寡黙な根本中佐を「昼行灯」と称して、忠臣蔵大石良雄に擬していたという。

1930年9月、国家改造を掲げる結社桜会にも参加するようになり、
翌年には陸軍のクーデター事件である三月事件に連座するも、中心人物である橋本欣五郎ら急進派の行動に危惧や不信感を抱き、また一夕会の東條らの説得もあり次第に桜会から距離を置くようになる。
十月事件にも半ば連座する形になったものの、幾人かの同士達と、当時の参謀本部作戦課長今村均大佐に自ら計画を漏洩、未遂に終わらせる事に寄与、一時期の拘束で処分は済んだ。

1935年 (昭和10年) 8月12日に起きた相沢事件時には、事情が分からずに、事件を起こした直後に連行される相沢三郎に駆け寄り、握手を交わしたとされ、統制派の将校であるにも関わらず、誤解を受ける行動を起こした事を、後に悔やんでいる。

1936年 (昭和11年) 2月26日?2月29日における二・二六事件の際は、陸軍省新聞班長として部下に、有名な「兵に告ぐ、勅命が発せられたのである。既に天皇陛下の御命令が発せられたのである。お前達は上官の命令が正しいものと信じて・・・」の戒厳司令部発表を、反乱軍の占拠地帯に向かって拡声器を通じて放送させ、反乱軍を動揺させて切り崩し工作を図った。
根本は決起将校らが陸軍大臣に宛てた「陸軍大臣要望事項」の中で、軍権を私したる中心人物として、武藤章中佐、片倉衷少佐と共に即時罷免を求められている。
また同事件時、決起将校らが2月26日の未明から、陸軍省において根本を待ち伏せていたが、昨晩から深酒をして寝過ごした為に命拾いした。

二・二六事件後の陸軍再編により原隊の連隊長に就任、日中戦争後は専門である支那畑に復帰、終戦に至るまで中国の現地司令部における参謀長や司令官を長らく務めた。


張家口の根本博
根本は昭和19年冬、関東軍からモンゴルの駐蒙軍司令官として張家口の司令部に着任した。
昭和20年1月の時点で、駐蒙軍は混成二個師団で日本全体の面積に匹敵する地区を警備し、かつ国民党の傅作義 (ふ・さくぎ) と八路軍 (中国共産党軍) に対抗せねばならなかった。

ちなみに国民党の傅作義ですが、彼は「見危授命 (けんきじゅめい)」(孔子の言葉)、つまり人の危うきを見て自分の命を投げ出すという言葉をモットーとしていました。

日中戦争以前の5年間、彼は第35軍長兼、綏遠 (すいえん) 省政府主席として善政を敷き、根本とも親交がありました。

根本はまた蒋介石とも昵懇 (じっこん) の仲でもありました。
若い時より「根本は支那人」と陰口を叩かれるほどの親中派で、傅作義の思想にも傾倒していたようです。
根本のこのような一面が、のちの台湾独立運動の援助へと続いていきます。

さて満蒙の状況だが昭和20年5月のドイツ降伏後、ソ連軍の動向は極めて険悪化しつつあった。
昭和20年6月、大本営は戦争指導会議における情勢判断において、ソ連の国家戦略、極東ソ連軍の状況、輸送能力などからみて「ソ連の攻勢開始は、8月か遅くとも9月上旬の公算大」と結論づけた。
一方現地の関東軍は、「独ソ戦で被った損害補填のため早くとも9月以降あるいは来年に持ち越す」こともあり得ると楽観視していた。
関東軍総司令部は、作戦準備が整わず防御不可能という自軍の作戦能力にとって都合のよい情報だけを取捨選択して判断をしたのである。

現に8月2日、関東軍報道部長は新京のラジオ放送で次のように述べている。

関東軍は盤石の安きにある。
邦人、特に国境開拓団の諸君は安んじて、生業に励むがよろしい」

こうした放送もあって、ソ連軍が侵攻してきた場合、放棄すると決められている土地に住む人々は、何かあれば関東軍が守ってくれるものと信じていた。

しかし敵情報の探索に努めていた最前線の部隊では、宣戦布告の数日前からソ連軍の作戦準備活動の活発化を察知しており、関東軍総司令部へ上申するも採用されず、独自の作戦準備行動をとった部隊もあった。
根本もドイツが降伏したら、ソ連は必ず対日戦に参加すると推測していた。


昭和20年8月9日早朝、ソ連・外蒙連合軍は日ソ中立条約を一方的に破棄し国境を突破し内蒙古に雪崩れ込んだ。主力はソ連の機甲部隊と外蒙騎兵隊の混成部隊で、兵員4万2000名、戦車、装甲車合わせて約4百両、迫撃砲等約6百門だった。
これらの地域に住んでいた邦人は、内蒙古の最南部にある張家口に逃げ込んできていた。

ソ連軍の機甲部隊は次々に要衝を占領、14日には日本軍陣地のある張家口の北西44kmまで迫っていたが、急進撃のため燃料補給が間に合わず、燃料不足で立ち往生した。

張家口に陣取る駐蒙軍2500名に課せられた使命は、張家口にいた在留邦人4万人の撤退であり、ソ連軍を阻止し、邦人の脱出を援護するということにあった。

駐蒙軍司令官 根本博中将は張家口の宿舎で眠れぬ夜を過ごしていた。

関東軍司令部は、ソ連軍が侵攻してきても、一般邦人にとっては無武装・無抵抗が最高の手段と考えていた。また一般日本人の間にも「ソ連軍は丸腰の日本人を絶対殺傷しない」という噂が流布していた。

しかしソ連軍は、在留邦人に対して、婦女子は手当たり次第に暴行したり、着ている衣服や腕時計まで掠奪している。拒否するものは容赦なく射殺するなど、暴虐の限りを尽くしているらしい。

根本は張家口に逃げ込んできた避難民から、ソ連軍に関するそのような噂を聞いてからだ。迫りつつあるソ連軍に対して、駐蒙軍2500名は迫撃砲、速射砲などが数門づつあるのみだった。陣地とは言っても、小高い丘を利用して所々にコンクリート製の機関銃座を設け、その前面には幅6m、深さ4mほどの対戦車壕があるだけだった。
戦力的には抗し得るはずもない。

昭和20年8月15日、根本は張家口放送局にいた。
根本はじめ軍人たちにはこの日に何があるかを知った上で放送局にいた。

陛下の玉音放送が終わった直後、マイクの前に立った根本は、エ、エンと、癖になっている咳払いをひとつすると、深く域を吸い込んでこう語り始めた。

「日本は戦争に敗れ、降伏いたしました。皆さんは今後のことを心配していると思います。しかし、我が部下将兵たちは、皆健在であります」
それは口調こそ穏やかなものの、断固たる決意が漲る声だった。

「わが軍は、私の命令がない限り、勝手に武器を捨てたり、任務を放棄したりするものは一人もおりません。心を安んじて下さい。疆民 (きょうみん) および邦人は、決して心配したり騒いだりする必要はありません。」
噛んで含めるような言い方だった。そして、根本はこう続けた。

※ 疆民

「私は上司の命令と国際法規によって行動します。疆民、邦人及び我が部下等の生命は、私が身命を賭して守り抜く覚悟です。皆さんには軍の指導を信頼し、その指示に従って行動されるよう、強く切望するものであります」

大本営の「即時停戦、武装解除受託」命令に従えば、ソ連軍は張家口に殺到し、引き揚げ直前の邦人は大混乱に陥り、市街は地獄絵図となる。
ソ連軍の本質を見抜いていた根本は、ここで投降すれば一般邦人をはじめとした日本軍は、ソ連軍に皆殺しにされるであろうことは容易に予測がついていた。
根本は末抗戦を決意、支那派遣軍総司令部に打電した。「八路軍及び外蒙ソ軍侵入は敢然これを阻止する決意なるも、もし、その決心が国家の大方針に反するならば、直ちに本職を免職せられたく、至急何分のご指示を待つ」という職を賭しての抗戦の決意を報告した。
根本は部下の将兵を集合させ、こう命令しました。
「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ連軍を断乎撃滅すべし。
これに対する責任は、司令官たるこの根本が一切を負う」

ポツダム宣言を受諾し、本国から武装解除命令が出ているにも関わらず、これを拒否して戦闘を行うのは、軍令違反に当たるが、その責任は全て、根本司令官個人が引き受けることを、部下に改めて明示した。

この根本司令官の決意はいち早く丸一陣地を死守する響兵団の将兵に伝わり、士気は一気に高まった。根本司令官は張家口を満州の二の舞にはさせじと立ち上がった。

司令官の断固たる決意に、駐蒙軍の将兵も闘志を燃やし、攻め込んできたソ連軍と激戦を展開した。

ソ連軍は総勢4万名以上。
一方、張家口の街の入り口となる丸一陣地を守る兵はわずか2500名。

8月15日、16日のソ連軍の攻撃は特に激しかったが、駐蒙軍の頑強な抵抗によって、戦車15台の残骸を残して退却していった。

8月18日、守備隊の動揺を誘うべく、ソ連軍航空機によりビラが散布されます。
「日本は既に無条件降伏したのだ。関東軍も既に降伏した。だが、張家口の日本軍司令官だけが戦闘を続けている。
我々は、この指揮官を戦争犯罪人として死刑に処する。」

また、ソ連軍軍使がビラと同じ内容を伝えるべく、日本軍陣地までやってきて降伏勧告を勧める。
ソ連軍の常套手段です。圧倒的戦力を前に、議論は戦いの継続と降伏にわかれます。

しかし、根本はここで降伏すれば満州の悲劇が繰り返されることを理解しています。根本は、部下に対してこう言います。

ソ連が私を戦犯にすることは容易いことではないか。しかし、私が戦死してしまえばそれもできまい。私が丸一陣地に赴き軍使を追い返してみせよう。それも叶わぬなら死ぬまでだ。」
この勢いに再び部下たちは圧倒され覚悟を新たなものとします。

駐蒙軍の目的はただ一つ、侵入してくるソ連軍と戦って、時間を稼いでいる間に4万人の居留民が安全に引き上げる時間を作ることだった。

ソ連軍は、途中幾度と降伏勧告を試みるも駐蒙軍は抗戦し続け、将兵は必死にソ連軍の攻撃を食い止めながら、すさまじい白兵戦をも乗り越えた。8月19日から始まったソ連軍との激闘はおよそ三日三晩続いたものの、駐蒙軍の必死の反撃の前にソ連軍は戦意を喪失し、一時撤退したため、日本軍は張家口を守り抜いた。

一方8月20日夕刻から始まった張家口からの撤収は、時に八路軍 (中国共産党軍の前身) からの攻撃にも必死に耐え、居留民4万人を乗せた列車と線路を守り抜いた。
これには根本は懇意でもあった中国国民党軍の傅作義と連絡をとりあい。撤退について国民党軍の協力を取り付けていた事情もあった。

8月21日の午前中には根本の元に「日本人居留民4万人は北京・天津方面へ脱出した」との報告がなされました。根本率いる駐蒙軍がソ連軍と激しく戦っている間に、4万人の居留民は、こうして無事に引き揚げる事ができたのだった。
こうして根本司令官の駐蒙軍は在留邦人の保護に成功し、駐蒙軍はひそかに撤退を開始。将兵は、途中、生のトウモロコシなどを食べながら、歩いて北京に向かった。
そして最後の隊が27日に万里の長城へ帰着した。

一連の戦闘で同旅団は約80名の犠牲者を出すも4万人近い邦人は全員無事に引き揚げを完了した。
根本中将の指揮下にあった、独立混成第二旅団に所属していた渡邊曹長は以下のように述べている。

「軍隊とは国民を守るのが原点です。私は、あの時の根本閣下の命令は当然だったと思います。私たちの戦いは終戦になって以後のことなので、客観的にいえば "反乱"ですよ。
でも、戦友は犬死ではなかった。そのおかげで、4万人が引き揚げて無事日本に帰って来られたのですから、結果的に4万の居留民を助けられたことは、私たちの誇りです。

隣の満州関東軍は、武装解除に応じて、邦人があんなひどい目に遭ったわけですから、同じ将軍でも、わが根本閣下は違う、と私たちは今も誇りに思っています」

その後根本は北京に留まり、北支那方面の最高責任者として在留邦人および35万将兵の祖国帰還の指揮をとった。

その年1945年 (昭和20年) 12月18日、根本は中華民国主席・蒋介石の求めに応じて面会した。
蒋介石と最初に会ったのは、陸軍参謀本部支那研究員として南京に駐在していた1926 年 (大正15)、南京においてであった。二人は共に「東亜の平和のためには、日中が手をつないでいかなければならない」との理想を同じくしていた。

蒋介石が北京に乗り込んできて、根本中将に会いたいと使者をよこした時、根本中将には蒋介石に対して、言葉では尽くせない感謝の気持ちがあった。

一つには、在留邦人、将兵の帰国は、国民党軍の庇護と協力によって無事に行われているのであり、それは満洲を略奪し、数十万と言われる日本人捕虜をシベリアに連れ去ったソ連とは対照的であった。

根本は、椅子が二脚しかない書斎に入っていった。蒋介石は根本の手をとり、椅子に座らせた。周囲には、国府軍の高官たちが立ったままでいる。

蒋介石は、にっこりと微笑みながら言った。

「今でも私は東亜の平和は日本と手を握っていく以外にないと思うんだよ。今まで日本は少々、思い上がっていたのではないだろうか。しかし、今度はこれで私たちと日本は対等に手を組めるだろう。あなたは至急、帰国して、日本再建のために努力をして欲しい。」

 その態度には、戦勝国代表の驕りは少しも感じられなかった。この時点で、国民党軍と共産軍の衝突が中国各地で始まっており、蒋介石には、早く日本が復興して、自分たちを支援して欲しい、という気持ちがあったのだろう。

「東亜の平和のため、そして閣下のために、私でお役に立つことがあればいつでも馳せ参じます」と、根本中将は約束した。

 在留邦人と将兵の帰国は約1年で無事完了し、根本中将は1946 (昭和21) 年8月に最後の船で帰国の途についた。

<書籍>
・ この命、義に捧ぐ
~台湾を救った陸軍中将 根本博の奇跡~
角川文庫 門田隆将 著

書評
1 2 3 4 5

<参考にしたサイト>
根本博 (Wikipedia)
岡村寧次 (Wikipedia)
明石元長 (Wikipedia)
蒋介石 (Wikipedia)
傅作義 (Wikipedia)

教科書に載らない歴史上の人物 16 根本博 その1~3 (羅針塾)
金門島の戦いで台湾を死守した日本人がいた──根本博と「白団」の活躍 (SBCr online)
台湾を救った日本人 根本博 (福岡パンフレット制作.com)
蒋介石総統の恩義に報いた日本将校団「白団」物語 1~15 (PDF)
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15
※ 15に「白団」外篇 根本将軍戦後の足跡がある。
・ ひと息コラム『巨龍のあくび』 第53回: 金門包丁の切れ味 (PDF)
・ 根本博【前・後編】(太平洋戦争史と心霊世界)
・ 終戦時邦人四万人を救った “響兵団” (一燈照隅)
・ 張家口の根本博 ? 本当に大事なものを守るためには時に反逆者になる覚悟が必要であることを体現した男 (大山俊輔ブログ)
根本博 (mixi)
・ 

<読んだだけ>
・ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡 (戦車兵のブログ)
・ 台湾を中共から守った男 根本博中将 (誇りが育つ日本の歴史)
・