【ゆっくり偉人列伝】根本博 後篇 ~義博運天、金門島に捧げた義~


根本博 後篇 ~義博運天、金門島に捧げた義~
0. 00:00 動画開始
1. 00:40 国共内戦の行方
2. 04:55 台湾への渡航
3. 09:43 蒋介石との再会
4. 11:13 湯恩伯の苦悩
5. 16:16 風は金門へ
6. 26:52 釣竿を担いでの帰国
7. 30:00 一対の花瓶と義薄運天

本編 ほぼ原稿

根本のもとに国民党立法委員の「黄節文 (こうせつぶん)」なる人物から手紙が届く。 彼女は1936年に病死していた国民党軍の要人でかつて根本と親しかった黄郛 (こうふ) の娘であった。
その手紙には「根本閣下のお力が必要なのです。助けていただけないでしょうか」と、逼迫した国民党軍の様相が痛切に滲むかのメッセージが込められていた。

そして1949年4月初旬のことだった。根本は東京多摩の自宅にいた。

そこに「国民党の密使」と名乗る李鉎源 (り・しょうげん) という台湾人が訪ねてきて、「閣下、私は傅作義将軍の依頼によってまかり越しました。どうか閣下のお力を貸していただきたい」と申し出た。

傅作義の名前を聞いて根本は驚きます。傅作義は根本がかつて交流が深かった国民党の要人です。張家口の戦いの折、万が一自分に何かがあったときには、と自身の遺書を傅作義宛にしたためていた。
敵味方別れていたものの、お互いにその人格を認めあった仲だった。
根本は「今こそ復員に力を貸してくれた蒋介石の恩義に報いるときだ」と確信した。

その頃の蒋介石率いる国民党は、1946年から本格化した第3次国共内戦において常に劣勢に立たされていた。アメリカからの支援が打ち切られた国民党に対し、ソ連が支援する中国共産党は連戦連勝。国民党の支配地域は縮小し、1949年には事実上台北への遷都を強いられていた。

ある日根本博は釣り竿を手にすると、「釣りに行って来る」と言って家を出た。
根本はまず戦前の第七代台湾総督だった明石元二郎の息子の明石元長と合流した。
明石は何とかして根本を台湾に送り届けたいと思ったが、終戦直後のこと、明石も無一文に近かった。渡航費用を捻出するために金策に駆けずり回った明石の手帳には「金、一文もなし」と書かれており、どれだけの苦労をしたことか、苦労が偲ばれる。
明石は資金提供者を求め、ようやく一艘の小さな釣り船を手配することに成功した。
1949年6月20日、根本は台湾へ向け延岡の港を出港した。
明石元長はその僅か4日後、過労のため世を去った。42歳であった。

根本は東シナ海にいた。
普通ならば琉球諸島を点々と伝いながら台湾に向かうところ、GHQに見つからないようにと最短距離で台湾を目指していた。
途中岩礁に乗り上げて船底に大穴を開けてしまうなど、苦労に苦労を重ねた台湾への航海だったが、14日掛けて遂に台湾に辿り着くことができた。

台湾への渡航には別の説もある。
根本らが乗った釣り船は、沈没直前に米海軍の警備艇に救助されたものの、沖縄駐留米軍の厳重な取調べを受けた。
根本は中国はソ連中国共産党のため共産化されつつあり、最後の反共拠点たる台湾も安全と思われない現在、自分は個人として蒋介石の反共戦略を援助する覚悟であると力説した。
沖縄の米軍は丁重に扱い、軍艦に乗せ基隆に送った。

船はボロボロ、身なり風体はまるで落ち武者か密航者かという有様。


根本らは密航者として逮捕され、基隆 (きーるん) 港近くの監獄にぶち込まれた。
通訳を介して「自分は国民党軍を助けに来た日本の軍人である」と訴えたが、誰も相手にしなかった。

しかし2週間もすると、「どうやら基隆に、日本人が流れ着いたそうだ」とか「その日本人は軍人だそうだ。名は根本博と言うそうだ」などと噂になった。
その噂を耳にしたのが国民党軍幹部の鈕先銘 (ちょうせんめい) 中将という人物で、根本が北支那方面軍司令官だった頃に交流があった人物だった。

鈕中将は「根本博」と言う名を耳にした瞬間、反射的に立ち上がった。
根本の人となりを良く知る鈕中将は「あの根本なら、あり得る」と直感し、すぐに車を走らせ基隆に向かったのだった。

鈕中将が来ると知らされた看守はあわてて、根本たちを風呂に入れ食事をさせた。
根本たちは急に待遇が変わったので「いよいよ処刑か」と覚悟を決めていた。

そこに現れた鈕中将は「根本先生!!」と駆け寄って、その手をしっかり握って離さなかった。その姿は鈕中将の感激の大きさを物語っていた。



根本たちは8月1日に台北に移動し、湯恩伯 (とうおんぱく) 将軍の歓待を受けた。
湯は根本と会うのは初めてだったが、その名前と実力のほどはかねてから聞き知っていた。
湯自身、日本に留学し、明治大学陸軍士官学校を出た知日派で、流暢な日本語で根本と語り合い、すぐに打ち解けた。

根本が来たと知らされた蒋介石は、即座に会見を求めた。
根本らが応接室に入ると、満面の笑みを浮かべた蒋介石が「好(ハオ)、好、好、老友人」と固く手を握った。
老友人とは古くからの信頼する友人という意味である。

根本の胸中に万感の思いが込み上げた。終戦時に在留邦人と日本軍将兵の帰国を助けてくれた恩人に、3年前の別れの時に「私でお役に立つことがあればいつでも馳せ参じます」と約束していた。その約束を遂に果たせたのである。

しばらく話が弾んだ後で蒋介石は真剣な面持ちでこう切り出した。
「近日中に、湯将軍が福建方面に行きます。差し支えなければ湯将軍と同行して福建方面の状況を見ていただきたい」
即座に快諾した根本に、蒋介石は何度も何度も「ありがとう、ありがとう」と繰り返していた。



その2ヶ月前国民党軍は上海を失っていた。
上海防衛を指揮していた湯将軍は上海から撤退していたのである。
上海を失った事で、国共内戦の行方はもう誰の目にも明らかに見えた。
8月5日にはアメリ国務省も「支那共産主義者の手中にある。国民党政府はすでに大衆の支持を失っている」として、公式に軍事援助打ち切りを発表していた。
要するにアメリカに棄てられたのである。

上海を失った国民党にとって、大陸への最後の足場が福建だった。
もしここも失えば一気に台湾まで存亡の危機に直面する。

福建行きを承諾した根本を、湯将軍は「顧問閣下」と呼び、食事の際には一番の上席に座らせた。根本が恐縮して辞退しても、湯はそれを許さなかったという。
湯将軍もまた、根本を極めて高く評価していたのである。

1949年8月18日、根本一行は福建に向けて出発した。根本は国民党軍の軍服を与えられ、名前は蒋介石から贈られた支那名の「林保源」を名乗りました。
厦門 (アモイ) に到着した根本は同地の地形等を調べた。


即座に「この島は守れない」と判断した。


厦門は香港と大陸の中継ぎ港で、商業地である。
しかし、大陸が中共軍の手に落ちれば如何になるだろうか?。交通が遮断されたら、港はその機能を完全に失い、住民20万の商民の生活も不可能になる。

しかも厦門には農業がなく、島内からは食料を得ることはできない。また、台湾にも厦門の20万商民を養うべき食料の余力はない。
例え敵の第一撃を押し返したとしても、長期戦になれば勝ち目はない。



さらに言えば・・・
厦門の北、西、南の三面は大陸、即ち中共軍に包囲されている。
間に横たわる海は、
西側が500mから2km程度、北側は2kmから3km、南側は6kmから8kmほどだ。
これほど近接した敵に一挙に押し渡られたら、我々には抗すべき術がない。


誠に残念ではありますが、守勢作戦としては防備の重点、即ち敵を迎え撃つのは、 金門島よりほかになし、と思います。



8/21
その夜根元は湯将軍に自分の考えを示した。
厦門は防衛するに向いていない。
共産党軍を迎え討つのは、金門島をおいてほかにありません。」

湯将軍は押し黙った。
「福建を守る」とは「厦門を死守する」ということだった。仮に金門島で戦って勝ったとしても共産党軍は厦門を落としたことを宣伝材料にするはずだ。蒋介石の怒りも買うだろう。

それを察して根本は語気を強めて言った。
「いまは台湾を守ることが国民党政府を守ることです。
そのためには戦略的に金門島を死守することが力となります。
自分の名誉ではなく、台湾を守る道筋をつけることが、軍人としての務めではありませんか!!」

この言葉に湯将軍は決断した。
厦門は放棄。金門島を死守する。」



その基本方針に則って根本は戦術を考えた。
共産党軍は海軍を持っていない。海峡を押し渡るには、近辺の漁村から小型の木造帆船 (ジャンク船) をかき集めることになるだろう。

海で迎え討てば一時的な勝利はできるだろう。
しかしそれでは敵の損害は少なく、勢いに乗った共産党軍を押しとどめることはできない。 ならば敵の大兵力をまず上陸させ、その上で一気に殲滅して国民党軍の圧倒的強さを見せつけるしかない・・・。

つまり、ただ勝つなら洋上で共産党軍を討てば容易く勝てるが、それでは台湾進攻を諦めさせることはできない。共産党軍を上陸させて、その上で殲滅してこそ台湾の安定が得られると読んでいたのだ。


そのため根本は日本陸軍が得意とする塹壕戦法を採用した。
海岸や岩陰に穴を掘り、敵を上陸させ、陸上に誘い込んで殲滅する。
まさに硫黄島や沖縄で、圧倒的な火力の米軍に対して大打撃を与えた戦法だった。


さらに共産党軍を上陸させた所でジャンク船を焼き払ってしまえば、敵は増援部隊は送り込めない。逃げ道を失った敵兵士は動揺する。ましてジャンク船では重火器は積めないので、相手は銃器を持った兵隊だけだ。こちらには戦車も野砲もある。上陸した兵を一挙に殲滅できる。


根本は共産党軍の上陸地を想定し、塹壕陣地の構築、敵船を焼き払うための油の保管など、日夜島内を巡りながら、細かな指示を与えながら廻った。


ちなみにアメリカ側は、国民党軍に旧日本軍人が参加しているのを問題視し、何度か白団の解散を蒋介石に要請したが断られている。



10月1日、毛沢東による中華人民共和国の成立宣言が全世界に向けて発信された。
勢いに乗った共産党軍は「こんな小島をとるには何の造作もない、大兵力を送り込んで残党をひねり潰すだけの事だ」と国民党軍を舐めきっていた。

10月半ば、共産党軍が金門島を攻撃するという情報が入った。
曰く、
「共産軍が船という船を徴収しており、24日夜には金門攻撃を行い、25日昼には金門で昼食をとる」とのことだった。
湯将軍は軍事顧問である根本や幕僚たちと協議を重ね、金門島のどこに部隊を配置するか、次々と決定していった。


そして10月24日夜、共産党軍は満を持して金門島への上陸作戦を開始した。
金門島の海岸は上陸した共産党軍二万の兵士で溢れかえった。

共産党軍が上陸する間、島からは一発の砲撃も銃撃なく、全員が悠々と島に上陸し、野営の準備に取りかかったそのとき、突然乗船してきたジャンク船から火の手があがった。 火の手はあっという間に広がり、油を注がれた木造のジャンク船は、見るも無惨に焼けてしまい、共産党軍の動揺が収まらないまま夜が明ける。


辺りが明るくなりかけたころ、突然島の中から砲撃音が鳴り響き渡った。
突然国民党軍の戦車21両が現れ、37ミリ砲を撃ちまくりながら、海岸にひとかたまりになっている二万の共産党軍に襲いかかった。
37ミリ砲を撃ちまくる戦車隊に、共産党軍は屍を残して敗走するしかなかった。


司令部で、湯将軍は根本の手を握って「すべて予定通りです。顧問閣下の判断と計画のおかげです」と語った。
「いささかなりとも、お役に立てた」と根本は実感した。



しかしまだ戦闘は続いていた。
前線に出れば様々な指示も出せるだろう。
根本は湯将軍の許可を得て、ジープに乗って前線に向かった。

共産党軍は金門島の西北端にある古寧頭村に立てこもり、村人を盾に必死の抵抗を続けていた。一方敗北を重ねてきた国民党軍は、初めてと言ってもよいこの勝利に酔い、血気にはやっていた。


「このままでは、巻き添えで一般の村民が大勢死ぬ。それだけは避けねばならない。
村民まで殺されてしまえば、この戦争が何のための戦争なのか、その意味が問われる。
国民党にとっても共産党との戦いの本義が失われてしまう。
一般民衆まで犠牲にする掃討作戦は採るべきではない」
根本は強い危機感を抱いた。


根本は冷静に作戦を立てて、湯将軍に献策した。
1. 古寧頭の背後に進出した戦車は、すべて後退させて、古寧頭から北方海岸への退路を開く。
2. 全戦車と砲兵を古寧頭南方地区に集め、古寧頭を南方より猛攻する。そして敵を日没後、北方海岸に撤退させる。
3. 砲艇を日没後、敵の後方海上に入れ、海岸に交代した敵に背射を加え陸上と協力して敵を殲滅する。
根本の作戦は明快だった。


しかし、湯将軍とその幕僚は衝撃を受けた。
「村民の犠牲を回避する」。
総司令部の幕僚たちの中で、村民の命を「第一」に考えた人間はいなかった。とにかく戦争に勝利する。
それだけしか頭になかったからだ。

幕僚会議は、根本の作戦を「支持する」ことで一致した。


10月26日午後3時、根本の作戦に基づく南側からの猛攻が始まった。
敵は予想通り、北側の海岸に向かって後退を始めた。そこにはあらかじめ配置しておいた砲艇が。砲艦の火砲が火を噴く。反対側からは戦車隊が迫る。共産党軍に逃げ場はなく、砂浜は阿鼻叫喚の地獄と化した。
午後10時、共産党軍の生存者は武器を捨てて降伏した。
共産軍の死者は1万とも2万とも言われるが、いまだにその数は定かではない。
古寧頭戦史館の調査によれば、上陸した共産党軍は2万、うち死者1万4千、捕虜6千と推定されている。国民党の方は死者1269名、負傷者1982名だった。


金門島において主力が殲滅されたため、
最短でわずか距離2キロしか離れていない海峡を挟んで国共激突の最前線は完全に沈着状態に入ってしまったのである。


かくしてわずか2昼夜で「金門の勝利」が確定した。勢いに乗って攻め立てた共産党軍は主力を殲滅されたため、その進撃は完全に止まった。金門島はそれから60年を経た今日も台湾領であり、中国の海峡制圧と台湾侵攻を防いでいる。



10月30日、湯将軍は幕僚たちを引き連れて、台北に凱旋した。
その中に「林保源」こと根本元日本陸軍中将がいることを知る者はいなかった。

湯一行を迎えた蒋介石は、根本の手を握って「ありがとう」と繰り返したという。
けれど根本中将は「支那撤退の際、蒋介石総統には大変な恩を受けた。自分はそのご恩をお返ししただけです」と静かに語った。


そして結局根本中将は、この功績に対する報償を一銭も受け取らず、また、日本で周囲の人達に迷惑がかかってはいけないからと、金門島での戦いに際しての根本中将の存在と活躍については、公式記録からは全て削除してくれるようにとくれぐれも頼み、台湾を後にしました。


昭和27年6月26日付朝日新聞は「募兵何も知らぬ、根本元中将二年ぶりに帰国」という見出しで、
<24年春ごろ、中国の日本人募兵に応じて台湾に密航、話題を振り撒いた元華北軍司令官、根本博元中将は数々のナゾを身に秘めながら25日朝10時5分羽田着の民航空運公司機(みんこうくううんこんす)で3年ぶりに帰国した。機からの降り立った根本中将はシワだらけの茶色ズボンにヨレヨレの白麻上衣、釣り竿を片手に「蒋総統にもしばしば会い、請われるままに軍事的に参考になることをいろいろ言い厦門作戦にも行って見た」と語った>
と報道した。


同日付読売新聞には密出国の理由について次のように語ったと報道した。
<第二次大戦中カイロ会談で日本の国体が危うかったとき蒋介石総統は何かと擁護してくれてポツダム宣言では "日本国民の希望にまかせる" ということになった。つまり日本の天皇蒋介石総統のお蔭で助かった訳だ。
このご恩返しを何とかしてやらねばと考えていたところ、蒋さんが窮地に追いこまれて総統をやめた、これは棄ててはおけない。


実はカイロ会談の際、蒋介石ルーズベルトから日本の国体について意見を求められ、天皇制存続の重要性を述べていたのである。


蒋総統はじめ向こうの要人とはしょっちゅう顔を合わせていたから軍事上のことについても相談を受ければ喜んで意見も申し上げた。噂のような募兵計画などに参画したり、前線に出て部隊の指揮を執ったりしたことは全くない。日本兵が大分残留しているが、どんな事をしているかあまリバラさん方がよいだろう・・・」
とはぐらかしている。


「漂流して台湾に渡ったのだが、顔見知りの友人から歓迎されてねぇ。ろくなこともしてないのに、歓迎ばかりしてもらい本当に悪いことをしてしまったよ」
根本は語り、

最後の一句は「白団」の存在を示唆している。



台北の中心に立つ巨大な中正紀年堂には、蒋介石の巨大な像とともに、彼の執務室を再現した部屋がある。その中に高さ40センチほどの花瓶が置かれている。他の壺や置物は一対となって左右に分かれているのに、この花瓶は一つしかない。

この花瓶は1947年に2個1セットとして3セット作られ、イギリスのエリザベス女王に1セット、日本の皇室に1セット贈られた。残る1セットの一つを蒋介石は自分の手元に置き、もう一つをこう言って根本に与えたのである。

「これは、あなたと私がいつも一緒にいるということです。常にそばにいて、お互いがお互いを忘れないという意味で、この花瓶を贈ります。」

それは命をかけて蒋介石の恩義に報いようとした根本に対する蒋総統の真心を表したものだった。
花瓶には釣り竿を持った男の姿があしらわれていた。
釣竿を持った男は名を姜子牙という。つまり太公望だ。

蒋介石が「貴方こそが私にとっての太公望です」と言っているかのようだ』などと言ったら言い過ぎだろうか。


その後、遺族の要望で景徳鎮の花瓶は近年台湾に戻ったそうだが、「借りは返したい」根本としては、

花瓶は根本氏の長女、富田のりさんが家宝として大切に保管していた。
富田さんは
「日台間にこんな友情があったことを知って欲しい。
頂いたものを返すのは失礼なので、永遠にお貸しします」
と、帰郷させることを決断した。
草葉の陰で「それでいい」と頷いていることだろう。



湯恩伯は蒋介石直系の勇将として戦争中よく名を知られた人物である。
1899年生まれで、日本の陸士卒業生で。根本将軍より10歳若かった。両人の間は肝胆相照 (かんたんあいてらす) らす友情で結ばれ、根本将軍の意見は湯恩伯を通じて重視され、湯思伯は根本将軍に師事していた。
1954年湯恩伯は胃癌治療のため特に希望して来日し東京慶応病院に入院した。この報を聞いた根本将軍は北海道から駈けつけ、病床を離れず6月末逝去に至るまで手厚い看護を続けた。


湯恩伯は根本将軍
帰国に際し次の送別の辞を贈り感謝の意を表している

義薄雲天
民国溝八年正我国大局慌抗之秋、根本先生以中日唇歯相向、更感於総統蒋公之剛正恢宏、毅然来赴、与恩伯朝夕相衆、出入金慶舟山各島、危難生死置之度外、此程崇高之義侠精神、実可天地間之久長、当敬
根本先生帰国之行、特書数字以留記念並誌景仰根本先生雅存
湯恩伯



蒋介石総統の恩義に報いた日本将校団「白団」物語 1~15 (PDF)
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※ 15に「白団」外篇 根本将軍戦後の足跡がある。

台湾に対する意識調査 2019年版 (一般社団法人中央調査社)

日本人の台湾に対する意識調査を行った。その結果、7割以上の人が台湾に親しみを感じ、台日関係は良好であると答え、6割以上の人が台湾は信頼できると答えた。
全体的には、今年の意識調査の結果は過去3年間の調査結果の傾向を引き継いでおり、日本人の多くが台湾に対し良好な印象を持っており、現在の台日関係の発展を評価するものとなった。

  2018年度対日世論調査 (日本台湾交流協会)

台湾人の日本に対する意識調査を行った結果、7割の人が日本に親しみを感じている。