【ゆっくり人物列伝】光山文博 ~特攻に散った、朝鮮系日本人~


光山文博 ~特攻に散った、朝鮮系日本人~
00:00 本編開始
00:32 光山文博の経歴
04:50 光山文博と冨屋食堂。そして、特攻
11:46 日韓における、光山文博の受容の相違
18:14 延長戦コーナー ~とある日本人女優の 許されざる罪~


 光山文博 (朝鮮名: 卓 庚鉉 (タク・キョンヒョン)、朝鮮語: 탁경현、1920年6月5日 - 1945年5月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。
# 本人の意に反して改名された資料が見つからなかったため、
# 日本名で記します。
 

 文博が生まれたのは、日本が政府間交渉を経た上で、国際的な承認のもとに韓国を併合してから10年目にあたるの1920年。文博の誕生時、一家の暮らしは裕福な方だったとされる。しかし、祖父が事業に失敗した結果、生活は次第に困窮。そんな彼らが選んだのが、日本に「出稼ぎ」に赴き、生計を一から立て直すという道だった。文博がまだ幼少だった頃の話である。
 訪日した彼らは、京都府に定住した。当時の京都には、1万人以上もの朝鮮半島出身者が住んでいたと言われている。併合以降、朝鮮よりも賃金条件の良い日本での仕事を求めて、多くの朝鮮人が海を渡っていた。
 一家は「光山」という姓を名乗り、卓庚鉉は「光山文博」となったが、この改名も法的強制によるものではない。当時、「朝鮮名のままだと商売がやりにくい」といった理由から、多くの朝鮮人が日本名に改名した。文博の一家もこの例に当てはまると考えられる。
 文博は地元の小学校を卒業した後、立命館中学へと進んだ。文博は日本の教育を受け、日本語を使いながら育った。その後、光山は京都薬学専門学校 (現・京都薬科大学) に進学した。
 1943年9月、同校を繰り上げ卒業となった光山は、翌10月に陸軍特別操縦見習士官を志願。見事、試験に合格し、同校の第一期生となった。陸軍特別操縦見習士官とは、高等教育機関の卒業生や在校生の志願者の中から、予備役将校操縦者として登用された者のことを指す。愛称は「学鷲」。短期間で優秀な航空要員を養成することが、同制度の目的であった。
 併合後の日本は、朝鮮人に対して徴兵制を敷かなかった。しかし、少なからぬ朝鮮人が「日本人と共に戦いたい」と入隊を希望した。日本軍が朝鮮人に門戸を閉ざすことこそ「差別」「屈辱」であると彼らは主張した。
 1937年、日本の衆議院議員となっていた朝鮮出身の朴春琴が「朝鮮人志願兵制度」を請願。翌1938年、「陸軍特別志願兵令」が公布されたことにより、朝鮮人による兵卒の志願が認められるようになった。日中戦争下、朝鮮人の志願兵は右肩上がりに増え続けた。
 かかる時流の中で、文博は陸軍特別操縦見習士官への道を志願したことになる。
 
 1943年10月、鹿児島県の南部に位置する大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所に入校した文博は、この地で航空兵としての基礎的な訓練課程へと入った。
 そんな彼が、休みの日曜日になると頻繁に訪れるようになったのが近隣の「富屋食堂」であった。知覧駅からほど近い商店街に面して建つ富屋食堂は、1929年に女主人・鳥濱トメが開いた店である。知覧分教所の開校は1941年12月だが、同店は翌1942年1月以降、陸軍の指定食堂となった。うどんや蕎麦といった麺類の他、各種丼物やカレーライスが人気で、夏にはかき氷も好評だったという。
 文博はトメを実母のように慕った。普段はもの静かな照れ屋で、一人でいることの多かった文博だが、トメとはとりわけ親しくなった。
 
 文博はトメと出逢ってまだ間もない時期に、自分が朝鮮人であるという事実を告げたという。当時の日本国内において、朝鮮人を不当に蔑視する愚人がいたことは、否定し難き事実である。そんな背景を知悉していたトメは、文博に対して殊に気を使って接した。文博は食堂の裏手にある離れの座敷で過ごすことを好んだ。
 そんな文博だったが、1944年7月、栃木県宇都宮市の教育隊へと転属。トメたちとも別れることとなった。その後、光山は茨城県の鉾田基地へと移動。そんな転々とした営為の中でも、光山はしばしばトメに、
 「知覧のおばちゃん、元気ですか」
 などと綴った葉書を寄せた。

 1944年10月、光山は陸軍少尉を拝命。順調な昇進だったが、翌11月、そんな彼を思わぬ不幸が襲った。京都にいた母親が逝去したのである。死に目にも会えなかったが、父親から伝えられた母の遺言は、
 「文博はもうお国に捧げた体だから、十分にご奉公するように」
 という内容のものだった。

 やがて、父もまた同じ気持ちであることを知った光山は、特攻を志願。折から海軍が始めた特攻に、陸軍が続いた時期であった。周囲の戦友たちも、次々と特攻を志願していた。
 
 上官の一人は、文博が朝鮮出身であることから、その覚悟の有無を改めて彼に確認した。しかし、文博の決意は固かった。上官は文博の強い意志に心を動かされた。こうして文博の特別攻撃隊への配属が決定した。
 
 1945年3月、光山は一旦、三重県の明野教導飛行師団に転属。同月29日、明野教導飛行師団の主導により、14個隊もの特別攻撃隊が編成された。その内の一つである第51振武隊の隊員の中に、光山の名前はあった。隊長は荒木春雄少尉、総員12名である。
 
 第51振武隊は山口県防府飛行場を経て、知覧飛行場へと前進。文博はこうして再び知覧の地を踏むこととなった。当時の知覧はすでに「特攻基地」と化していた。
 
 文博は最初の外出日に早速、懐かしき富屋食堂を訪れた。
 
 「おばちゃーん」
 
 店の引き戸を開けて入ってきた光山の姿に、トメが驚く。
 
 「まあ、光山さんじゃないの」
 
 トメは温かく彼を迎えた。文博の相貌は以前よりも逞しくなっているように見えた。そして、トメはすぐに文博が特攻隊員であるという事実を悟った。何故なら、この時期に知覧に戻って来るのは、特攻隊員ばかりだったからである。トメの推察と不安は、文博から発せられた次の言葉によって裏付けられた。
 
 「今度は俺、特攻隊員なんだ。だから、あんまり長くいられないよ」
 
 約半年前に実母を亡くした光山にとって、トメの存在はより大きなものとして感じられたであろう。
 
 久しぶりとなるお気に入りの「離れ」に通された光山は、そこで大きく伸びをして寝転がったという。
 
 以降、光山は富屋食堂に毎日のように顔を出した。特攻隊員の外出は、せめてもの温情として、かなり自由に認められていた。

続きは動画で・・・
# ウソ 後追いでBlog書くのって大変w