第8回 創作メモ 昌豨 ほぼ台本

昌豨 (1-38,43、2-144、3-213,224,250,256、5-34,131)

昌豨 (?-206年) は、中国の後漢時代末期の武将。徐州東海郡の人。別名に「昌覇」もある。徐州東海郡の独立勢力指導者。

泰山方面で孫観・呉敦・尹礼らと共に、臧覇を首領として活動していた。臧覇らは当初呂布と敵対したが、後に同盟者となった。

臧覇も元々は盗賊。山賊のともがら。仲間も同様。
おそらく、現地では顔も効いたし、人望もそれなりにあったんだろう。

建安3年 (198年) 12月、呂布曹操に滅ぼされると、臧覇らと共にいったん曹操に降伏し、青州・徐州の一部を委ねられる厚遇を受けた。

1回目
だから、臧覇らに、青州・徐州を任せた。

時期は不明だが、東海の襄賁で炅母が反逆した時、昌豨に通じている。この反乱は呂虔に鎮圧された。

2回目の反乱

炅母 (けいぼ) 生没年不明
曹操に仕えていた襄賁校尉の杜松配下の住民で、曹操に対して反乱を起こした。しかし曹操が杜松に変えて派遣した呂虔の謀略により、炅母とその腹心数十人は酒宴に招かれて酔いつぶれた所を殴り殺された。(3-256)

時期の特定できるかな?
呂虔伝より、袁紹が任じた中郎将の郭祖、公孫犢が・・・ってあるからそれより前なんだろうな。と当たりをつける。
が、無理でした

建安4年 (199年)、劉備が下邳で曹操に叛いたとき、昌豨は東海郡において劉備に呼応した。

3回目の反乱

建安5年 (200年) 正月、劉備曹操に敗北して袁紹の下へ逃れた後、これに続けて昌豨を撃破した。

4回目の反乱

劉備の口車に乗ってってコメントしてる人がいる。
仕方ないから調べる。
正史と資治通鑑にはない。

建安6年 (201年) 官渡の戦いの後、昌豨は再び曹操に反逆し、張遼夏侯淵は数か月に渡ってこれを攻撃したが撃破出来なかった。それでも張遼は巧みに昌豨を説得し、降伏させることに成功する。

曹操張遼を魯国に駐屯させていたが、張遼夏侯淵とともに東海に進んで昌豨を包囲した。昌豨は数ヶ月のあいだ持ちこたえ、夏侯淵らは軍糧が底をついたため帰還しようとした。張遼は「ここ数日、昌豨はいつも張遼を見つめ、矢を射ることも少なくなってきました。きっと彼の計算にまだためらいがあって、そのせいで全力で戦わないのです。彼と語り合って降服を呼びかけたいと存じます」と夏侯淵に告げ、昌豨に使者をやった《張遼伝》。
そこで昌豨は三公山から下りてきて、張遼と語り合った。張遼が「太祖 (?) は神の武勇をおもちで、徳によって四方を手懐けておられる。真っ先に馳せ参じた者から大きなご褒美がもらえるのだぞ」と言うと、昌豨は降服を承諾した。張遼は単身で三公山に登って彼の邸に入り、妻子に挨拶した。昌豨が大喜びして曹操のもとに出頭すると、曹操は彼をもとの場所に帰ることを許した《張遼伝》。

曹操張遼に対し、「これ大将の法にあらず」とコメント

建安11年 (206年)、昌豨はまたしても曹操に反逆し、今度は于禁臧覇の討伐を受ける。于禁は当初苦戦したが、夏侯淵の支援を受けて何とか昌豨を降伏させた。
于禁は昌豨と旧友だったが、「法によれば、包囲されて後に降伏した者は赦されない」として、涙ながらに昌豨を処刑した。曹操はこれを聞いて、于禁をいっそう重んじた。ただし『三国志』注釈者の裴松之は、囚人として曹操の下に護送し、万一の大赦を期待すべきだったと、于禁の行為を非難している。

5回目

于禁が討伐したが攻略することができず夏侯淵が来援した。夏侯淵于禁臧霸らは十以上の屯営を攻め下し、昌豨は于禁のもとに出頭した《夏侯淵臧霸伝》。
諸将はみな彼を曹操のもとに送致すべきだと言ったが、于禁は「包囲されたのち降服した者は赦さないのが公 (曹操) の慣例だ。法律を奉って命令を行うのはお上に仕える者の節義である。昌豨とは旧友であるが、節義を失ってよいものであろうか」。
于禁は自ら昌豨を引見して別れを告げ、涙を流しながら彼を斬った。曹操はこれを聞いて「吾 (わたし) のもとに出頭せず于禁のところに行ったのは、運命ではないだろうか」と歎息した《于禁伝》。

Wikipediaより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E3%82%AD


どうやら、これ以上はなさそう。
一応正史も関連項目は読んだけど、wikiで済む