07回 創作メモ 張邈について

張邈 字: 孟卓 (? - 興平2年 (195年))
(1-18,20,22,29,31,39,417,448,457、2-13,41,46,52,54,55,86,137,160,234,235、3-13,36,198,262、4-72,73、5-215)

兗州東平郡寿張県(山東省泰安市東平県)の人。弟は張超。『三国志』では「呂布伝」に付伝されている。
弟は張超。(1-20,31、2-14,15,39~44,46,51~54、3-219,222、7-251、8-79)

董卓伝」の引く『漢末名士録』や『後漢書』の「党錮伝」によると、漢の八厨の一人であったとある。

身内のサロンで言われてたことだろうから、世間にまでの訴求力はそんなになかったと思われるが (兗州を除く)、当時きっての名士だったんだろうなぁ。
ちなみに他の7人は度尚、王考、劉儒、胡毋班、秦周、蕃嚮、王章。胡毋班は王匡と因縁を持つ。

若い頃から男伊達で気前がよく、困っている者を救うための散財を惜しまなかった[1]。曹操袁紹と親友のように仲が良く[2]、 頭脳の明晰さと徳行で官界において知られるようになった。また三公の府から招聘を受け、成績優秀という評価を受けた。騎都尉を務めた後は、董卓の名士優遇策の一環として、陳留太守に任命された (董卓呂布伝)。

[1] 党錮の禁参照
[2] 袁紹とは、許攸・何顒・伍瓊達と共に「奔走の友」と呼ばれる契りを結んだとあり (袁紹伝)、曹操とは、互いが死んだ時に家族の面倒を見る事を約束するほどに仲が良かったとある。現に193年、曹操が徐州討伐に向かったとき、家族に対し「わしに万が一もしものことがあれば、孟卓 (張邈) を頼れ」と述べている。

Wiki董卓伝と書かれているけど呂布伝の誤り

袁紹を盟主として反董卓連合が結成された時、張邈は曹操らと共に参戦した[3]。

[3] 「臧洪伝」によると、挙兵後に酸棗で弟や孔伷など一部の諸侯と共に会盟をしている。

ラグがある。張邈はあくまでも兗州グループ。袁紹韓遂とは違う。

張邈は弟や曹操、それに劉岱・袁遺・橋瑁・鮑信と共に酸棗に駐屯したが、大半の諸侯が酒宴ばかりで戦をしようとしなかった[4]。

[4] 当時董卓に仕えていた鄭泰によると、張邈は「勉強ばかりして書斎に閉じ籠もり、座敷を覗こうともしない人物」と言われている (鄭渾伝が引く『漢紀』、『後漢書』鄭泰伝)。
この言葉だけじゃわかんないね。

というワケで、郭泰伝
http://www.project-imagine.org/search2.cgi?text=wei16-4
こういう文脈に見える言葉。
要するに、反董卓の連合なんて烏合の衆だよと。

曹操が戦をするよう呼び掛けると (武帝紀)、張邈は鮑信と共に曹操の求めに応じ、部下の衛茲を曹操に同行させた。しかし、曹操達は董卓軍の徐栄に大敗し、衛茲を戦死させてしまった。また、酸棗の軍勢も兵糧が尽きたため解散となった (「後漢書』)。

 衛茲 (1-18,22、2-14,3-495,497)
この人は曹操最初期の超重要人物。いつかよく調べたい。

下線部
この書きぶりだと衛茲は張邈の部下。
衛茲は曹操を随分と買っていたから、この人が生きていたら張邈の謀反はなかったかも・・・。
早くして亡くなった人は、妄想がはかどるw

これ以前、袁紹董卓を討つべく集まった諸侯に対し、奢った振舞いを見せた事があった。張邈は袁紹に、己の振る舞いを改めるよう諫めたが、逆に袁紹の怒りを買って殺されそうになった。この時は、曹操袁紹に取り成したため、危うく難を逃れている。張邈はこの事を知ると、曹操に対し恩義を感じるようになったという。

自分が物事の中心にいないと満足できない袁紹像を、これでもかと補強してくれるエピソード。 

長安で勃発した政変の結果、呂布董卓の部下である李傕達に敗れて落ち延び、袁紹の下に身を寄せた。しかしそこで諍いを起こしたため、呂布袁紹の下からも立ち去ることになった。その後、張邈は呂布と親交を結ぶようになったため、それが原因で袁紹から不興を買うことにつながってしまう。張邈は「いつか、曹操袁紹との友情を優先して、自分を殺すのではないか」と、曹操に疑念を抱くようになったという。一方の呂布張楊の下に身を寄せた。

呂布を呼び寄せたのは張邈。絶対に陳宮ではあり得ない。
方や天下に知られた名士、方や馬の骨 (のような人)。誰が陳宮の誘いにのるもんか。 

興平元年 (194年)、再び曹操は徐州の陶謙を攻めるため本拠を留守にした。
この時、張邈は曹操軍の陳宮から「今こそ曹操の領地を奪う好機」と唆され、また曹操と不仲だった弟にも諭されたため、彼らと結託して呂布を迎え入れ、曹操に対し反乱を起こした。
張邈と呂布は、短期間で曹操の本拠地である兗州の大半を占領した。また、急報を聞きつけ引き返して来た曹操軍を、返り討ちにする事にも成功した。しかし、荀彧・程昱・夏侯惇・棗祗らが守る3城だけは落とせず、曹操の勢力にとどめを刺す事が出来なかった。その後、飢饉が発生したため、両者の争いは一時的に中断された。

 これは初耳 (曹操と不仲だった弟)。
→ 正史確認しました。
 真偽が明らかでないことをさらっと書く、Wikipediaの仕様です。

首謀者は陳宮・張超。
張邈はそれに引き摺られた?おいらの考察も首謀者は陳宮・張超だけど、証拠に乏しいのはいつものことだなぁ。
張超の人物像がイメージできない。野心か、義心か、私事か?

陳宮はさして難しくない。
こいつは、義心に見せかけた野心。
最後のやり取り然り、呂布への謀反然り。こいつは劉備のともがら。
うまく張邈の不安と義心を誘って、丸め込んで、仲間に引き入れたんでしょう。張邈の名士という看板が必要だったから。陳宮自身が名士ならば、張邈は必要ない。
・・・なんか似たような奴いたなぁ。思い出せない
あと、呂布っていう駒か。張邈 - 呂布のラインでしか接点がない。
呂布は担がれただけ。張邈も同じ

見せかけの義心とは
兗州が荒れていたこと

3城を落とせなかったのがそもそもの失敗。でも、この時点で誰が失敗と思うだろうか?大概の奴ならこれでゲームセット。
曹操がすごいんだよ。でも、曹操の戦略的・戦術的才能を考慮できなかったのは明らかな失敗。→ 199年 陳宮投降時の台詞に通じる。

翌2年 (195年) には、勢いを盛り返した曹操に敗れ、兗州から撤退。
呂布陳宮らは、陶謙から徐州を譲り受けていた劉備を頼って落ち延びた。
張邈は、陳留に居た弟らと分断されていたため、陳留の一族を救出しようと袁術に援軍を求めに向かったが、部下の裏切りに遭い殺されてしまった。前後して陳留は陥落し、張超など張邈の遺族は、曹操の追及を逃れて雍丘に移った。因みにこの頃、既に曹操長安の天子から正式な兗州に任命されていたため (武帝紀)、張邈たちは賊の立場に追い込まれていた。

何気に董昭の功。張楊ではそこまで見抜けないよね。
でも、動画には組み込めないよね。
恐らく張楊は物資の援助を行ってたはず。

董昭伝
董昭の弟の董訪は、張邈の幕下にあった。張邈と袁紹は仲が悪かったため袁紹は讒言を聞き入れ、董昭を処罰しようとした。
袁紹どんだけー(以下略)
 董昭の意趣返しだとしても、バカにはできない芸当ですな。 

唐突にいきなり袁術の名前が出てくる。
この頃袁術は寿春にいる。なんの成算もなしに援軍を求める訳はない。袁術の影がちらつくんだけど、どの程度関与していたかはわからない。
救援要請は別の使者経由で届いてたはず。しかし袁術は動かず。
195年は揚州の支配権をめぐって劉繇と対立。孫策による劉繇攻めの年。
動けなかったのかなぁ。

翌建安元年 (196年)、ついに雍丘は曹操軍の攻撃によって陥落。張超が焼身自殺し、張邈の三族 (父母・兄弟・実子と養子) は曹操によって皆殺しの刑に処せられた。

曹操兗州における名士層をおそらく必要としてない。
殺るときは禍根を残さないように。鉄則だね。

揚州情勢は落ち着いた。袁術の目は徐州へ。

小説『三国志演義』でも、若干の脚色を除いては、ほぼ同様の描写がなされている。
Wikipediaより。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E3%83%90%E3%82%AF

後漢書李膺伝より、その子、李瓚の話
「いまに動乱が起こるだろうが、天下の英雄は曹操以外に存在しない。張孟卓は吾 (わたし) と親しく、袁本初 (袁紹) は汝の妻の実家だが、だからといって彼らを頼りにしてはならぬ。必ず曹氏に身をよせるようにな」

李瓚さん、あんたすげーよ。

後漢書 李膺
膺の子の李瓚は、位が東平相にまでのぼった。 初め、曹操がまだ無名だった頃、 瓚はこれを異才と見て、亡くなる時に子の宣らに言った。
「時代はまさに乱れようとしている。天下の英雄は曹操を置いて他にはない。
張孟卓とわたしは親しいし、袁本初と汝は外親 (母方の親戚) だが、頼ってはいけない。必ず曹氏を頼れ」
諸子はこれに従い、乱世を乗り切った。

李瓚 (? - ?) 潁川郡襄城縣。治績はわかんない。

張邈のどこに危うさを感じたんだろう?

あとは従事中郎の許汜、同 王階

許汜 (?-?) 荊州襄陽郡
ああ、あの口だけ男だね。
王階 (?-?) 
呂布に乗り換えて、袁術に援軍要請に行く。
これ以後、正史から消える。没不明。

従事中郎
参謀副官

兗州 (人口は後漢書 郡国志より)
東郡 (人口 603,393)
191年 北部州境で黒山賊の被害
193年 対袁術戦で兵站を担当
陳留郡 (人口 869,433)
192年 董卓の侵略と略奪
193年 対袁術戦の主戦場となり荒廃
東平郡 (人口 448,270)、済北郡 (人口 235,897)
192年 青洲黄巾賊により荒廃 (兗州刺史 劉岱死亡のとき)
任城国 (人口 194,156)
192年 青洲黄巾賊により荒廃 (兗州刺史 劉岱死亡のとき)
193年 陶謙の侵略

青州黄巾賊の受け入れは問題だったか? (192年冬)
兗州側に不満があったことは想像できる。どの層が反対してたかというと、兗州の名士層、支配階級層は絶対に反対してたことは想像に難くない。
しかし、ちまたの住人はどうかというと疑問。
「不安はある。しかし、賊が帰順すればこれまでのように賊に襲われることはない。というか、その賊が黄巾なんだから複雑。黄巾に家族を殺された人もいただろうしねぇ。
でも、休耕地はあるよねぇ。」

結局は、兗州は根拠地にはなりませんでした。


流れはこんなもんだね。

張邈は何故曹操に叛いたのか?
・ 張邈の立場
陳宮の立場