07回 創作メモ 金尚について

金尚 元休 京兆尹の人

初平四年(193年)頃、長安献帝によって兗州刺史を拜して東に向かった。
 しかし、曹操が既に兗州牧を称していたため、南へ向かって袁術に頼った。
 春、劉表曹操軍の糧道を断ち、袁術が陳留郡に進軍して封丘県に駐屯した。金尚もこれに随行した。袁術は将の劉詳を使わして匡亭に駐屯させた。曹操がこれを撃ち、袁術が救いに出て戦ったが、大破された、袁術は封丘県を保ったが、曹操の包囲を受ける前に襄邑県に逃走した。
 一連の戦いについて、後に袁術呂布に書を送り、「昔、金元休が南して封丘に至り、曹操の敗る所となった」と記している。

  建安二年 (197年)、袁術は帝号を僭称し、金尚を太尉にしようと欲した。金尚は敢えて言葉を顕あきらかにせず、私ひそかに人を使わして拒絶の意思を諷めかした。金尚が屈する意思がないことに、袁術もまた敢えて強いようとはしなかった。
 しかし間もなく (建安の初め)、金尚は逃亡して還ろうとし、袁術の害する所となった。
 その後、金尚の喪(遺体)は太傅馬日磾の喪と俱に京師 (許都) に至った。天子 (献帝) は金尚の忠烈を嘉し、咨嗟 (嘆息) して、詔して百官に弔祭させ、子の金瑋を拜して郎中とした。この恩典は馬日磾とは異なるものだった。


袁術による193年の兗州侵攻は、金尚の兗州刺史就任と、兗州曹操・張邈 (袁紹グループ)の拒絶が原因だろうな。