07回 創作メモ 陳宮

字は公台。東郡武陽の人《後漢書呂布伝》。 陳宮は剛直壮烈、若くして海内の知名の士はみな交友を結んだ。天下が混乱すると太祖 (曹操) に随身した《呂布伝》。 陳宮は東郡の人であるから、曹操が東郡太守になったとき配下に加わったのだろう。正史 呂布伝の…

07回 創作メモ 名士について (1)

水利事業後漢より、水利や建設は、汝南や頴川でたくさん行われた。『後漢書』杜詩伝に、建武七年、南陽太守となって、水利したことがある。建安十三年、鄧晨が南陽太守となり、汝南の平輿の人・許楊ととに堤防をなおした。両漢のあいだで、気候の変化があっ…

07回 創作メモ 韓馥について

韓馥 字を文節といい、潁川の人当時、渤海郡には董卓と対立し出奔していた袁紹が、太守として入っていた。韓馥は元々袁氏に仕えた役人であったが (魏志「袁紹伝」)、董卓の意向を忖度して従事を数人使い、袁紹を監視した (魏志「武帝紀」が引く『英雄記』) …

07回 創作メモ 金尚について

金尚 元休 京兆尹の人 初平四年(193年)頃、長安の献帝によって兗州刺史を拜して東に向かった。 しかし、曹操が既に兗州牧を称していたため、南へ向かって袁術に頼った。 春、劉表が曹操軍の糧道を断ち、袁術が陳留郡に進軍して封丘県に駐屯した。金尚もこ…

07回 創作メモ 辺譲について

正史 三国志陳留の辺譲の議論が随分太祖の感情を害した。太祖は辺譲を殺害し、その家族を皆殺しにした。(武帝紀 曹瞞伝の引用 1-120)然るに曹操は、その儘その基盤を利用してのさばり、思いの儘に苛酷な行いをし、民衆から搾取剥奪し、賢人を傷付け善人を迫…