07回 創作メモ 名士について (2)
王肱 生誕地不明
劉岱 徐州沛県
万潜 生誕地不明
薛悌 兗州東郡
接点か見いだせないなぁ
郭嘉、戯志才なんかと同じように、世間から距離を置いていた人だったかもしれない。
余談だが戯志才は196年 献帝擁立後に仕え、郭嘉の出仕が199年だから。短いな。
曹操が東郡太守になったのが191年だから、東郡出身の陳宮が出仕したのもこの頃だろうな。
荀彧は191年。程昱は192年。
陳宮は「(曹操の兗州支配のため) 先行して兗州に赴き、別駕や治中などを説得して回った」って言ってるが、程昱はこのころの官職は不明なため恐らく面識はないと思われる。生活圏は程昱が一番近いんだけどなぁ。
程昱は出仕すると寿張県令を代行させた。
荀彧は太守の属官だろうか?意見を求めてるようだし、曹操の側近くに居られる職だろう。曹操が兗州牧、鎮東将軍になると、その司馬になる。
じゃぁ、陳宮はというと将?だったのか。いまいち立ち位置が分からない。現実は東郡の守備をまかせて徐州へ行ってる。
Wikipediaなんかは「当時、智謀の士として名声が高かった陳宮であるが」といってるが、根拠を知りたいところ。
荀攸の評「陳宮は智謀こそあるが、決断が遅い」が独り歩きしてるんじゃないのか?
曹操配下における有望株という位置づけだろうか?
面白いものみっけ
豫州刺史は袁紹側の周昂または周喁と、袁術側の孫堅がそれぞれ任命され争い、孫堅が勝利した。
周昂は、袁紹に任じられ豫州刺史、後に九江太守を歴任。袁術と個人的になんかあるのかな?袁紹が袁術の邪魔をするときは必ず、この人を使う。(まぁ、周昕、周昂、周喁がごちゃ混ぜになってる感はあるけど)
→周喁が豫州刺史、周昂が九江太守だね
本題に戻って、陳宮は名士だったか?
おいらはNoだと思う。
もし名士だったらそのネームヴァリューを利用して故郷の東武陽県の県令ぐらいさせてそう。名声があった陳宮というのはイメージしにくい。
ただ将にはしてる。私兵を持っていたから?わからん。
陳宮は智謀の士だったか?
No。
実績だけみると、縦横家の面がより強い。
謀反の動機は?
- 曹操軍で新参の参謀である荀彧や程昱らが台頭し始めた事による嫉妬、反発 。
- 徐州で曹操が行なった大量虐殺への失望 。
- 張邈が呂布と手を結んだ事に激怒した袁紹が曹操と組んで自分を殺害しようとしているのではないかと猜疑していた。
1はちっと違うんじゃないかと。
そもそも陳宮が参謀であったという裏付けがない。
2は、ないとは言えないが、それだけで裏切るかなぁ、幾ら儒教思想が蔓延してたと言ってもねぇ。それに第一陳宮自身が儒教的ではない。
3は史書的に読み取れるが陳宮が叛いたことの説明にならない。
おいらは
「覇王の業を説いて曹操を兗州牧に据えたのに、当の曹操は兗州の事も省みないで袁紹チームの戦ばっかりで愛想が尽きた。もそっと兗州のこと考えろよ」と言った線に落ち着くかな?