第12回 劉巴 (創作メモ)

・ [正史解説] 劉巴の生涯
・ [逸話紹介] 周不疑の才能を認める
・ [逸話紹介] 張飛を凹ませる?
・ [逸話紹介] 諸葛亮が軽口を言う


劉巴 字: 子初 ?- 222年 零陵烝陽の人
(5-51,233,249,299,339,393,464)

三国志の記述おさらい

先主伝 (5-51)
劉巴は昔から恨みに思っていた人物であったが、高官に就け、その才能を発揮させた。

劉表が没して曹操が南進すると人々はみな劉備に従ったが、劉巴だけは曹操のもとに赴いた。
・ 劉巴曹操の命を受けて江南三郡を鎮撫した。劉備が江南三郡を攻略すると、劉巴は交阯に逃走した。
劉璋劉備を迎えようとすると「山林に虎を放つようなものです」と反対した。
劉備劉巴を嫌うのは上記3点ぐらいだな。
両方とも、劉巴の言い分は理解できる。

劉巴は漢の臣下です。劉備には降れません。
プライドの高さが垣間見れる。名士としてのプライドかそれとも漢の臣下としてのプライドか。

伊籍伝 (5-233)
諸葛亮、法正、劉巴李厳とともに「蜀科」(蜀の法律) を作った。
「蜀科」の制定は、この5人の力による。

蜀科を作りました。

楊儀伝 (5-299)
楊儀尚書令の劉巴とうまくいかなかったので、はるか遠方の弘農太守に左遷された。

尚書は「中国の官名。秦 (しん) 代に設置され、初めは天子の文書の授受をつかさどる小官だったが、しだいに地位が上がり、唐代~明代には六部の長官となった。」
後漢では大司馬が太尉に改称されたが,皇帝側近の尚書が丞相の職務を遂行するようになった。 魏・晋時代から丞相の名が復活し宰相として機能したが,後漢以来の,皇帝直属の秘書官室である尚書が政務遂行の中心になる傾向が推し進められ,それまでの三公が権力を失っていき,尚書の最高官の録尚書事が宰相の権力を掌握した。」

楊儀は癖が強いからなぁ。

来敏伝 (5-339)

馬忠伝 (5-393)

来敏伝と馬忠伝には取り立てて逸話はない

楊戯伝 李漢輔臣賛 (5-464)
尚書 (劉巴) は清潔高尚であって、行いを慎み身を整え、志高く道義をつらぬき、古典を味読し、その高雅な格調にのっとり、古人と肩を並べることを願った。
劉子初を賛う。

 称賛してますよと。

三国志の記述は以上。 

 

■ 正史を読んだ雑感
裴松之の注の全部が「零陵先賢伝」であり、なんか趙雲と重なる (趙雲の裴注もすべて「趙雲別伝」である)。
「零陵先賢伝」は、隋志によれば全1巻。零陵出身者の伝記をまとめたものらしい。
零陵出身者は上げ、そのほかは下げの論調が目立ち、史書としての信頼性にややぐ疑問が残る。

※ 以下は「零陵先賢伝」を除いた印象
陳寿の記載は本当に少なく、その点も趙雲と被る。
しかし、劉和の場合は筋金入りの士大夫 (豪族・貴族) である。祖父 劉曜 (交州蒼梧郡太守)、父 劉祥 (荊州江夏郡太守) ともに郡太守を務めている。

父 劉祥は (袁術麾下の) 孫堅に協力的で、兵糧の供給に応じなかった南陽郡の張咨を共に殺害し、これが後に多くの豪族から怨まれる原因となって自らも豪族らに攻められて戦闘になり、戦死した。

この業は子の劉巴にもおよび、劉表から命を狙われることになる。

袁紹劉表。つまり袁紹グループ。
対して、袁術 - 孫堅 - 劉祥 - 劉巴袁術グループ。
劉巴もまた二袁相克に翻弄された一人である。

この後は、冒頭の先主伝の記載を参照のこと。

劉巴は交阯より蜀に至った。

許靖と同じパターンだな。戦乱を避けて益州へ。

思わぬ危難 (劉備荊州侵攻と占領のコト) に遭い辛酸を舐めましたが、信義 (正しい道 = 漢に仕えること) に心を寄せる民衆や、味方になって協力してくれる人々 (=反劉備の人々) に出会い、天の心に従い、物事の本質を知り、人生とはままならぬものと知りました。もしも道に窮し私の命数が尽きたなら、滄海 (=大海原) に命を託し (つまり、海に身を投げるよってこと)、再び荊州を見ることはないでしょう。(零陵先賢伝)

よっぽど劉備に仕えるのが嫌だった。
漢に仕えたかった。

劉備益州を定めると劉巴は謝罪したが、劉備は責めなかった。しかも諸葛孔明がしばしば称薦した為、劉備劉巴を左将軍西曹掾とした。
零陵先賢伝によれば、このとき劉備は、兵士に劉巴を殺すなと命令し、劉巴の罪を咎めず、大喜びだったそうだ。

諸葛亮が推薦するんだから、一角の人物であったことが伺える。
馬謖以外は見誤ったことがないような印象がある。その馬謖だって一回の失敗で斬首されたわけだし、生きながらえていたならどうなったかわからない。

建安二十四年 (219年)、劉備は漢中王となると劉巴尚書とし、後に法正に代えて尚書令とした。

文書を司るところ。大出世だね。やったね。
彼がそれを望んでいたとは思えないが・・・。

劉巴は質素な生活を心掛け、田畑を経営して財産を増やそうとしなかった。そして自ら進んで劉備に仕えたのではなかったので、忠誠を疑われないように慎みと沈黙を守り、公務が終わると他人と私的な交際は結ばないようにし、公事でなければ発言しなかった。

蜀漢賈詡だね。
賈詡も交際を絶っていた。

劉備が尊号を称し (僭称し)、帝位に即いたとき神に捧げた文は彼の筆によるものであった。

劉備が帝位に就くことを反対したと零陵先賢伝にある。
尚書令の劉巴、主簿の雍茂、州前部司馬の費詩の三人が反対した。

見解の別れる所。
a.  命令されれば嫌々でも書くよね。仕事だもん
b. 劉備の帝位簒奪に賛成か、どうでもよかった。
どっちもありそうだが、これまでの彼の歩みを見ると積極的に賛成していたとは思えない。

ネットを見ると案の定暗殺説まである。
それもありそうだが小説だなぁ。

まぁ控えめに見ても、意にそわぬことでも仕事と割り切るしかなかったんだろうな。
オレ個人の印象としては、劉巴は漢の忠臣です。

章武二年 (222年) に卒した。
卒した後、魏の尚書僕射陳羣が丞相諸葛亮に書簡を与えて劉巴の消息を問うたが、劉君子初と称し、甚だ敬重した。

陳羣から問い合わせの手紙が届くところを見ると、その名声は中原まで広がっていたことが伺える。
劉巴は正真正銘の名士です

■ 感想

人生とはままならぬもの。
思い通りに進まない自らの待遇に忸怩たる思いを感じていたのではないか?

傷心のルサンチマンという言葉が似合いそう。

 

■ 掾とは
劉巴が就いた丞相掾、西曹掾とは

三国志の時代の「丞相」についてだが、丞相は宰相というだけあって独自の官庁を持ち、多数の部下を抱えていた。その官庁は「丞相府」と呼ばれており、部下としては「長史」「主簿」「掾」「属」「令史」などがあった。
中でも「長史」(丞相長史) というのは丞相府内における次官のような存在で、かなり格の高い人物が就任している
それ以下の「丞相主簿」「丞相掾」「丞相属」「丞相令史」については、府のいくつかの部局 (当時「曹」と呼ばれていた) ごとに配置され、それぞれ担当の職務に当たっていたようだ。

劉巴劉備が嫌いだったのか?

難しいが、まず士大夫の中にはこういうタイプもいたことは事実と思われる。
曹操もこれには苦労した。許劭とか宗承とか。一方まったく逆のタイプとして孔融が挙げられる。太史慈とか劉備とか、ほぼ無名の兵卒とも親しんだ。
名士層の共通意識ではないにせよ、名士の中には出仕が卑しいものを見下す風潮はあったようだ。
だから好んでいなかったのは確かだろうと思う。少なくとも 漢 (曹操) > 劉備であったことは間違いない (冒頭の先主伝参照)。ただ誤解して欲しくないのは、劉巴が認めていたのは漢であって曹操ではないというコト。
劉備をただの兵卒とみていた可能性もあると思う。まぁ、これも劉巴しか知らないな。

■ (劉巴は) なぜ自殺しなかったのか?

益州陥落の際、王累は自決して反対の意を貫いた。
このとき反対したのは王累、黄権劉巴の3人。
黄権劉巴は生きながらえた。なぜ劉巴は自決しなかったのか?

儒教の影響があるかもしれない。
孔子は自殺に対して両義的な態度をとっている。
・自殺否定的側面 ‐ 孔子は自己破壊的行為は、身体が親から与えられたものであるが故に 咎められるべきとした → 「親からもらった大事な身体に」と言う人の発想はここからきている。例えば三国志夏侯惇「父之精母之血不可棄也」
・自殺肯定的側面 ‐ 「身を殺して以て仁を成すこと有り」 ‐ 他者や特定の集団のために、自ら死を持って尽くすことを認めている → 上記の徳 (仁や義) にかなう行動であれば、自殺が認められる。それどころか称賛される。

劉備に屈せず、自殺することが仁や義にかなう行為であるのかどうなのか・・・?
個人的には、仁や義に叛く行為だと思うが難しい。
劉巴の心中をはかり知ることはできそうもないな。
 

■ [逸話紹介] 周不疑の才能を認めるの巻

劉巴が博学だとの評判を聞いた劉先が、周不疑を遣わせて劉巴に就いて学ばせようとしたところ、劉巴
「昔、わたしが荊北を遊学して師門を回りましたが、学んだことと言えば "記問の学" で、おかげで私は、自分の名前を書くことにも苦労してしまうほどでした。
私はに楊朱のような処世の術がなく、墨翟のように時代の要請に応えようとの気概も持ち合わせておりません。

昔「記問の学」自分は無学な輩で、自分の名前さえ書くのに苦労してるんですよ。
楊朱や墨翟のような者ではありません。

お手紙をいただきましたが、鸞鳳の雛であるかのような賢甥を、燕雀の庭で遊ばせたいとか。一体どのように指導すれば宜しいのですか?。
「知識が有るのに知識の無い人にも問い、徳があってもまるでないように振舞う」 というお言葉に対しても恥じ入るばかり、どうしてお引き受けできましょうか」。

「知識があるのに・・・」下りは劉先に対する嫌味だね。
劉先は劉表の部下。劉表に仕えないのと同様、あなた方とはお付き合いできませんよ。といってる。なぜなら、昔命を狙われたことを忘れたわけではないから。
ひとまず周不疑の件はおくとして、謙遜を装いながら実は褒め殺し。
ホントに劉表と、その一派に関わるのが嫌なんだな。
だから、「名前を書くのにも苦労した」なんて見え透いた嫌味を言っている。
という風に読めないこともない。

ちなみに、「知識が有るのに知識の無い人にも問い、徳があってもまるでないように振舞う」の原文は「在れども無きが若く、実つれども虚しきが若く (論語 泰伯編)」。 

 ■ 諸葛亮を論破するの巻

 曹操が九錫だ魏王だと言い出すのは、赤壁後のこと。このお話はそれ以前のお話。
仮に「天子様 = 曹操の意向」だったとしても、賊を打ち払い、天下を再び安定させることは御心に叶うはず。
にもかかわらず、天子様のものである荊州の地を勝手に占領し、我がもの顔の劉備とその一党に、なぜ自分が降ることができるというのか。
まぁ、こんな心境ではなかったかと思います。

 

第11回 張飛と孔明の知恵比べ ~張飛と蒟蒻問答~


三国志解説 第11回は張飛孔明の知恵比べ ~張飛と蒟蒻問答~

・「蒼天航路」の蒟蒻問答
・ 落語「蒟蒻問答」
・ 「張飛孔明の知恵比べ」
・ [考察] なぜ張飛が問答の主人公なのか?
について紹介・解説しています。

以下は、動画の捕捉、または演出した個所の訂正です

■ 演出抜きのホントのお話
赤字部分が演出です。

曹操: 今日は中秋の佳節、私と知恵比べをしようじゃないか。

張飛は軍師の予想通りだったことに感心しながら、曹操の申し出を承知した。
曹操は両手で大きなお盆の形を作る。
黙って受け答えせよと軍師から言われていた張飛は、指三本を突き出した。
曹操は慌てて親指と人差し指で八の字を作って手を伸ばす。
すると張飛は落ち着き払った様子で、腹をポンポンポンポンと叩いた。

それを見た曹操は「ああ」と呻いて逃げ去ってしまった。

張飛
わっはっはっはっ。
曹操様の奴「今日は中秋節だから俺の屋敷に来て、こんな大きな月餅を喰えるか?」
と言いやがる。
だから「三個喰ってやる」と言ったら「いいや、八個喰え」と抜かしやがった。
だから俺様は腹を叩いて「呑み込んでやる」と言ったら、曹操様め、尻尾を巻いて逃げやがった。大方、今頃はでけぇ月餅でも作ってるんだろうよ。

それを聞いた諸葛亮は大笑い。
傍らで不審な表情の劉備にこう説明した。

諸葛亮:
偉大なる曹公が曹操が大きな輪を描いたのは「自分の勢力はお前らよりずっと大きいぞ」という意味でした。翼徳殿が指三本を出したので、賢明なる曹公は「ああ、張飛関羽諸葛亮がいるんだったなぁ」劉備関羽張飛の桃園の誓い」を思い出しました。
忠義に溢れる曹公曹操はこれに負けじと「自分には八十万の軍勢がいるぞ」と八の字を作りました。
しかし翼徳殿は腹を叩いて呑み下す振りをしたので、曹公はお可哀想に泣きながら引き返しました。
曹公はがっかりして、きっと病を得るでしょう。今年一杯保つかどうか・・・。
嗚呼、悲しいかな孟徳。痛ましいかな孟徳。惜しいかな孟徳。

 
出典: 機略・智謀の三国志 坂口和澄 (徳間文庫カレッジ)

■ 三國外伝と2代目林家正蔵
三國外伝 (彭小明 編集 / 上海文芸出版社/湖北省群衆芸術館編) が
小明は1930-2019/1/15
2代目林家正蔵は生没年不明。1839年に2代目林家正蔵を襲名。

ちなみに蒟蒻問答の原型があったとされる貞享年間は1684~1688年。
かなり古いね。

生きた時代的には正蔵の方が古いけど、どっちが元ネタか、残念ながらわからんね。
坂口氏は禅僧かなにかが明に渡ってこの話を伝えたのでは?と述べられていたが、やっぱりわかんないね。

張飛孔明の知恵比べ
劉備関羽張飛孔明を三度訪ねた。孔明は三語目にとうとう言った。
「それではこうしよう。私となぞなぞをして答えられたら、山を降りることにしよう」
劉備関羽がやってみようと前に出ようとしたところ、張飛が横から割り込んできて言った。
「先生、どうぞ、私がお相手致しましょう」
孔明がます天を指すと、張飛は地を指した。孔明が片方の手を出すと、張飛は両手を出す。孔明が三本の指で小さな円を描くと、張飛は九本の指で大きな円を描いた。そこで孔明が胸元で掌いっぱいの大きな円を描くと、張飛はうなずいて袖の中を指した。

なぞ解きが終わって、孔明が言った。「当たりだ。その通り。さっそく山を降りよう」

劉備は一体どういうなぞだったのか、孔明に尋ねた。
孔明は「私が天文と言うと、張飛は地理と答えた。私が天下統一と説くと、張飛は三国鼎立だと言う。
私が三回で元に戻ると言うと、張飛は九回でも元通りと言った。
私が胸中陰陽八卦ありと言うと、彼は日と月は袖の中に隠してあると言う。
どうだね。当たってるじゃないか」

劉備関羽張飛にいつの間にこのような深い教養があったのかとびっくり仰天、こっそり張飛にどうやって当てたのか聞いてみた。
張飛はカラカラと笑いながら、「諸葛先生が今日は雪が降ると言うので、俺は道が滑ると言った。それから先生は月餅を三つ持ってきたと言うので、俺は九つくらいなきゃ足りないと言ってやった。先生が月餅は大きいので食べ切れないと言ったので、俺は食べ切れなかったら、袖に入れて持って帰ると言ったんだ。こんな問題のどこが難しいんだい」
劉備関羽はこれを聞いて大笑いした。

三国志博物館集解 様より引用
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50190270.html

「三国志」ここが変だよ日本人!

■ 元ネタ 三国志』のここがヘンだよ日本人!
https://jp.ign.com/china-weekly/28008/feature/23

■ 参考にしたサイト
中国では嫌われている三国志呂布、どうして日本ではこんなに愛されているのか=中国メディア
https://news.nicovideo.jp/watch/nw3290867

なぜ日本人は三国志が大好きなのか!? 中国人の反応。 http://blog.livedoor.jp/zzcj/archives/51863673.html

台中のおもしろスポット、ビルの谷間に巨大な関羽像が出現! ? 台中南天 http://taiwanwind.jp/spot-nantiangong-20170906/

日本人は、どうしてこんなに「曹操」が好きなのか=中国メディア https://news.livedoor.com/article/detail/15628132/

三国志に関する調査 (Q.好きな人物は5ページ) https://www.surveymy.com/downloads/RQA-threekingdoms201211.pdf

07回 創作メモ 張邈について

張邈 字: 孟卓 (? - 興平2年 (195年))
(1-18,20,22,29,31,39,417,448,457、2-13,41,46,52,54,55,86,137,160,234,235、3-13,36,198,262、4-72,73、5-215)

兗州東平郡寿張県(山東省泰安市東平県)の人。弟は張超。『三国志』では「呂布伝」に付伝されている。
弟は張超。(1-20,31、2-14,15,39~44,46,51~54、3-219,222、7-251、8-79)

董卓伝」の引く『漢末名士録』や『後漢書』の「党錮伝」によると、漢の八厨の一人であったとある。

身内のサロンで言われてたことだろうから、世間にまでの訴求力はそんなになかったと思われるが (兗州を除く)、当時きっての名士だったんだろうなぁ。
ちなみに他の7人は度尚、王考、劉儒、胡毋班、秦周、蕃嚮、王章。胡毋班は王匡と因縁を持つ。

若い頃から男伊達で気前がよく、困っている者を救うための散財を惜しまなかった[1]。曹操袁紹と親友のように仲が良く[2]、 頭脳の明晰さと徳行で官界において知られるようになった。また三公の府から招聘を受け、成績優秀という評価を受けた。騎都尉を務めた後は、董卓の名士優遇策の一環として、陳留太守に任命された (董卓呂布伝)。

[1] 党錮の禁参照
[2] 袁紹とは、許攸・何顒・伍瓊達と共に「奔走の友」と呼ばれる契りを結んだとあり (袁紹伝)、曹操とは、互いが死んだ時に家族の面倒を見る事を約束するほどに仲が良かったとある。現に193年、曹操が徐州討伐に向かったとき、家族に対し「わしに万が一もしものことがあれば、孟卓 (張邈) を頼れ」と述べている。

Wiki董卓伝と書かれているけど呂布伝の誤り

袁紹を盟主として反董卓連合が結成された時、張邈は曹操らと共に参戦した[3]。

[3] 「臧洪伝」によると、挙兵後に酸棗で弟や孔伷など一部の諸侯と共に会盟をしている。

ラグがある。張邈はあくまでも兗州グループ。袁紹韓遂とは違う。

張邈は弟や曹操、それに劉岱・袁遺・橋瑁・鮑信と共に酸棗に駐屯したが、大半の諸侯が酒宴ばかりで戦をしようとしなかった[4]。

[4] 当時董卓に仕えていた鄭泰によると、張邈は「勉強ばかりして書斎に閉じ籠もり、座敷を覗こうともしない人物」と言われている (鄭渾伝が引く『漢紀』、『後漢書』鄭泰伝)。
この言葉だけじゃわかんないね。

というワケで、郭泰伝
http://www.project-imagine.org/search2.cgi?text=wei16-4
こういう文脈に見える言葉。
要するに、反董卓の連合なんて烏合の衆だよと。

曹操が戦をするよう呼び掛けると (武帝紀)、張邈は鮑信と共に曹操の求めに応じ、部下の衛茲を曹操に同行させた。しかし、曹操達は董卓軍の徐栄に大敗し、衛茲を戦死させてしまった。また、酸棗の軍勢も兵糧が尽きたため解散となった (「後漢書』)。

 衛茲 (1-18,22、2-14,3-495,497)
この人は曹操最初期の超重要人物。いつかよく調べたい。

下線部
この書きぶりだと衛茲は張邈の部下。
衛茲は曹操を随分と買っていたから、この人が生きていたら張邈の謀反はなかったかも・・・。
早くして亡くなった人は、妄想がはかどるw

これ以前、袁紹董卓を討つべく集まった諸侯に対し、奢った振舞いを見せた事があった。張邈は袁紹に、己の振る舞いを改めるよう諫めたが、逆に袁紹の怒りを買って殺されそうになった。この時は、曹操袁紹に取り成したため、危うく難を逃れている。張邈はこの事を知ると、曹操に対し恩義を感じるようになったという。

自分が物事の中心にいないと満足できない袁紹像を、これでもかと補強してくれるエピソード。 

長安で勃発した政変の結果、呂布董卓の部下である李傕達に敗れて落ち延び、袁紹の下に身を寄せた。しかしそこで諍いを起こしたため、呂布袁紹の下からも立ち去ることになった。その後、張邈は呂布と親交を結ぶようになったため、それが原因で袁紹から不興を買うことにつながってしまう。張邈は「いつか、曹操袁紹との友情を優先して、自分を殺すのではないか」と、曹操に疑念を抱くようになったという。一方の呂布張楊の下に身を寄せた。

呂布を呼び寄せたのは張邈。絶対に陳宮ではあり得ない。
方や天下に知られた名士、方や馬の骨 (のような人)。誰が陳宮の誘いにのるもんか。 

興平元年 (194年)、再び曹操は徐州の陶謙を攻めるため本拠を留守にした。
この時、張邈は曹操軍の陳宮から「今こそ曹操の領地を奪う好機」と唆され、また曹操と不仲だった弟にも諭されたため、彼らと結託して呂布を迎え入れ、曹操に対し反乱を起こした。
張邈と呂布は、短期間で曹操の本拠地である兗州の大半を占領した。また、急報を聞きつけ引き返して来た曹操軍を、返り討ちにする事にも成功した。しかし、荀彧・程昱・夏侯惇・棗祗らが守る3城だけは落とせず、曹操の勢力にとどめを刺す事が出来なかった。その後、飢饉が発生したため、両者の争いは一時的に中断された。

 これは初耳 (曹操と不仲だった弟)。
→ 正史確認しました。
 真偽が明らかでないことをさらっと書く、Wikipediaの仕様です。

首謀者は陳宮・張超。
張邈はそれに引き摺られた?おいらの考察も首謀者は陳宮・張超だけど、証拠に乏しいのはいつものことだなぁ。
張超の人物像がイメージできない。野心か、義心か、私事か?

陳宮はさして難しくない。
こいつは、義心に見せかけた野心。
最後のやり取り然り、呂布への謀反然り。こいつは劉備のともがら。
うまく張邈の不安と義心を誘って、丸め込んで、仲間に引き入れたんでしょう。張邈の名士という看板が必要だったから。陳宮自身が名士ならば、張邈は必要ない。
・・・なんか似たような奴いたなぁ。思い出せない
あと、呂布っていう駒か。張邈 - 呂布のラインでしか接点がない。
呂布は担がれただけ。張邈も同じ

見せかけの義心とは
兗州が荒れていたこと

3城を落とせなかったのがそもそもの失敗。でも、この時点で誰が失敗と思うだろうか?大概の奴ならこれでゲームセット。
曹操がすごいんだよ。でも、曹操の戦略的・戦術的才能を考慮できなかったのは明らかな失敗。→ 199年 陳宮投降時の台詞に通じる。

翌2年 (195年) には、勢いを盛り返した曹操に敗れ、兗州から撤退。
呂布陳宮らは、陶謙から徐州を譲り受けていた劉備を頼って落ち延びた。
張邈は、陳留に居た弟らと分断されていたため、陳留の一族を救出しようと袁術に援軍を求めに向かったが、部下の裏切りに遭い殺されてしまった。前後して陳留は陥落し、張超など張邈の遺族は、曹操の追及を逃れて雍丘に移った。因みにこの頃、既に曹操長安の天子から正式な兗州に任命されていたため (武帝紀)、張邈たちは賊の立場に追い込まれていた。

何気に董昭の功。張楊ではそこまで見抜けないよね。
でも、動画には組み込めないよね。
恐らく張楊は物資の援助を行ってたはず。

董昭伝
董昭の弟の董訪は、張邈の幕下にあった。張邈と袁紹は仲が悪かったため袁紹は讒言を聞き入れ、董昭を処罰しようとした。
袁紹どんだけー(以下略)
 董昭の意趣返しだとしても、バカにはできない芸当ですな。 

唐突にいきなり袁術の名前が出てくる。
この頃袁術は寿春にいる。なんの成算もなしに援軍を求める訳はない。袁術の影がちらつくんだけど、どの程度関与していたかはわからない。
救援要請は別の使者経由で届いてたはず。しかし袁術は動かず。
195年は揚州の支配権をめぐって劉繇と対立。孫策による劉繇攻めの年。
動けなかったのかなぁ。

翌建安元年 (196年)、ついに雍丘は曹操軍の攻撃によって陥落。張超が焼身自殺し、張邈の三族 (父母・兄弟・実子と養子) は曹操によって皆殺しの刑に処せられた。

曹操兗州における名士層をおそらく必要としてない。
殺るときは禍根を残さないように。鉄則だね。

揚州情勢は落ち着いた。袁術の目は徐州へ。

小説『三国志演義』でも、若干の脚色を除いては、ほぼ同様の描写がなされている。
Wikipediaより。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E3%83%90%E3%82%AF

後漢書李膺伝より、その子、李瓚の話
「いまに動乱が起こるだろうが、天下の英雄は曹操以外に存在しない。張孟卓は吾 (わたし) と親しく、袁本初 (袁紹) は汝の妻の実家だが、だからといって彼らを頼りにしてはならぬ。必ず曹氏に身をよせるようにな」

李瓚さん、あんたすげーよ。

後漢書 李膺
膺の子の李瓚は、位が東平相にまでのぼった。 初め、曹操がまだ無名だった頃、 瓚はこれを異才と見て、亡くなる時に子の宣らに言った。
「時代はまさに乱れようとしている。天下の英雄は曹操を置いて他にはない。
張孟卓とわたしは親しいし、袁本初と汝は外親 (母方の親戚) だが、頼ってはいけない。必ず曹氏を頼れ」
諸子はこれに従い、乱世を乗り切った。

李瓚 (? - ?) 潁川郡襄城縣。治績はわかんない。

張邈のどこに危うさを感じたんだろう?

あとは従事中郎の許汜、同 王階

許汜 (?-?) 荊州襄陽郡
ああ、あの口だけ男だね。
王階 (?-?) 
呂布に乗り換えて、袁術に援軍要請に行く。
これ以後、正史から消える。没不明。

従事中郎
参謀副官

兗州 (人口は後漢書 郡国志より)
東郡 (人口 603,393)
191年 北部州境で黒山賊の被害
193年 対袁術戦で兵站を担当
陳留郡 (人口 869,433)
192年 董卓の侵略と略奪
193年 対袁術戦の主戦場となり荒廃
東平郡 (人口 448,270)、済北郡 (人口 235,897)
192年 青洲黄巾賊により荒廃 (兗州刺史 劉岱死亡のとき)
任城国 (人口 194,156)
192年 青洲黄巾賊により荒廃 (兗州刺史 劉岱死亡のとき)
193年 陶謙の侵略

青州黄巾賊の受け入れは問題だったか? (192年冬)
兗州側に不満があったことは想像できる。どの層が反対してたかというと、兗州の名士層、支配階級層は絶対に反対してたことは想像に難くない。
しかし、ちまたの住人はどうかというと疑問。
「不安はある。しかし、賊が帰順すればこれまでのように賊に襲われることはない。というか、その賊が黄巾なんだから複雑。黄巾に家族を殺された人もいただろうしねぇ。
でも、休耕地はあるよねぇ。」

結局は、兗州は根拠地にはなりませんでした。


流れはこんなもんだね。

張邈は何故曹操に叛いたのか?
・ 張邈の立場
陳宮の立場

 

第8回 創作メモ 昌豨 ほぼ台本

昌豨 (1-38,43、2-144、3-213,224,250,256、5-34,131)

昌豨 (?-206年) は、中国の後漢時代末期の武将。徐州東海郡の人。別名に「昌覇」もある。徐州東海郡の独立勢力指導者。

泰山方面で孫観・呉敦・尹礼らと共に、臧覇を首領として活動していた。臧覇らは当初呂布と敵対したが、後に同盟者となった。

臧覇も元々は盗賊。山賊のともがら。仲間も同様。
おそらく、現地では顔も効いたし、人望もそれなりにあったんだろう。

建安3年 (198年) 12月、呂布曹操に滅ぼされると、臧覇らと共にいったん曹操に降伏し、青州・徐州の一部を委ねられる厚遇を受けた。

1回目
だから、臧覇らに、青州・徐州を任せた。

時期は不明だが、東海の襄賁で炅母が反逆した時、昌豨に通じている。この反乱は呂虔に鎮圧された。

2回目の反乱

炅母 (けいぼ) 生没年不明
曹操に仕えていた襄賁校尉の杜松配下の住民で、曹操に対して反乱を起こした。しかし曹操が杜松に変えて派遣した呂虔の謀略により、炅母とその腹心数十人は酒宴に招かれて酔いつぶれた所を殴り殺された。(3-256)

時期の特定できるかな?
呂虔伝より、袁紹が任じた中郎将の郭祖、公孫犢が・・・ってあるからそれより前なんだろうな。と当たりをつける。
が、無理でした

建安4年 (199年)、劉備が下邳で曹操に叛いたとき、昌豨は東海郡において劉備に呼応した。

3回目の反乱

建安5年 (200年) 正月、劉備曹操に敗北して袁紹の下へ逃れた後、これに続けて昌豨を撃破した。

4回目の反乱

劉備の口車に乗ってってコメントしてる人がいる。
仕方ないから調べる。
正史と資治通鑑にはない。

建安6年 (201年) 官渡の戦いの後、昌豨は再び曹操に反逆し、張遼夏侯淵は数か月に渡ってこれを攻撃したが撃破出来なかった。それでも張遼は巧みに昌豨を説得し、降伏させることに成功する。

曹操張遼を魯国に駐屯させていたが、張遼夏侯淵とともに東海に進んで昌豨を包囲した。昌豨は数ヶ月のあいだ持ちこたえ、夏侯淵らは軍糧が底をついたため帰還しようとした。張遼は「ここ数日、昌豨はいつも張遼を見つめ、矢を射ることも少なくなってきました。きっと彼の計算にまだためらいがあって、そのせいで全力で戦わないのです。彼と語り合って降服を呼びかけたいと存じます」と夏侯淵に告げ、昌豨に使者をやった《張遼伝》。
そこで昌豨は三公山から下りてきて、張遼と語り合った。張遼が「太祖 (?) は神の武勇をおもちで、徳によって四方を手懐けておられる。真っ先に馳せ参じた者から大きなご褒美がもらえるのだぞ」と言うと、昌豨は降服を承諾した。張遼は単身で三公山に登って彼の邸に入り、妻子に挨拶した。昌豨が大喜びして曹操のもとに出頭すると、曹操は彼をもとの場所に帰ることを許した《張遼伝》。

曹操張遼に対し、「これ大将の法にあらず」とコメント

建安11年 (206年)、昌豨はまたしても曹操に反逆し、今度は于禁臧覇の討伐を受ける。于禁は当初苦戦したが、夏侯淵の支援を受けて何とか昌豨を降伏させた。
于禁は昌豨と旧友だったが、「法によれば、包囲されて後に降伏した者は赦されない」として、涙ながらに昌豨を処刑した。曹操はこれを聞いて、于禁をいっそう重んじた。ただし『三国志』注釈者の裴松之は、囚人として曹操の下に護送し、万一の大赦を期待すべきだったと、于禁の行為を非難している。

5回目

于禁が討伐したが攻略することができず夏侯淵が来援した。夏侯淵于禁臧霸らは十以上の屯営を攻め下し、昌豨は于禁のもとに出頭した《夏侯淵臧霸伝》。
諸将はみな彼を曹操のもとに送致すべきだと言ったが、于禁は「包囲されたのち降服した者は赦さないのが公 (曹操) の慣例だ。法律を奉って命令を行うのはお上に仕える者の節義である。昌豨とは旧友であるが、節義を失ってよいものであろうか」。
于禁は自ら昌豨を引見して別れを告げ、涙を流しながら彼を斬った。曹操はこれを聞いて「吾 (わたし) のもとに出頭せず于禁のところに行ったのは、運命ではないだろうか」と歎息した《于禁伝》。

Wikipediaより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E3%82%AD


どうやら、これ以上はなさそう。
一応正史も関連項目は読んだけど、wikiで済む



07回 創作メモ 郭貢について

豫州の各郡太守

潁川
秦襲 / 秦彭 / 逯並 / 寇恂 / 郭伋 / 任延 / 葛興 / 趙興 / 顧奉 / 竇瓌 / 王昱 / 朱寵 / 种払 / 周栄 / 張敏 / 黄昌 / 宋登 / 段熲 / 楊彪 / 何進 / 高倫 / 巴粛 / 司馬雋 / 曹褒 / 張温 / 李旻 / 陰脩 / 鄧颺 / 夏侯淵 / 高柔

陰脩
南陽郡の出身。豫州穎川郡の太守や少府を務めた。人物鑑定眼に優れて張仲、鍾繇、郭図、荀攸、荀彧、張礼、杜祐など多くの人材を見出したという。
死因や死去した年は不明である。
https://enpedia.rxy.jp/wiki/%E9%99%B0%E8%84%A9

汝南
寇恂 / 鄧晨 / 欧陽歙 / 何敞 / 張敏 / 李法 / 胡広 / 鮑昱 / 韓崇 / 鮑衆 / 邵夔 / 謁煥 / 梁湛 / 宗資 / 王堂 / 王龔 / 尹勲 / 趙謙 / 徐璆 / 楊奇 / 劉翊 / 荀攸 / 李通 / 満寵 / 司馬芝 / 田予 / 鄧艾 / 程暁

沛国
陳脩 / 韓歆 / 玄貨 / 向苗 / 満寵 / 司馬芝 / 鄭渾

陳国
潘蹇 / 孫該 / 胡軫

刺史なら軍権を有してないからどっかの太守とくっ付いてるだろう。と思ったけど
あきらかに袁術派は見つからず

07回 創作メモ 二袁相克

前哨戦は191年の襄陽の戦い
袁紹と結んだ劉表が、孫堅と戦う。孫堅が死亡。
この戦いの遠因は朱儁 

朱儁董卓から離反、洛陽を出奔し、兵を率いて荊州南陽)つまり袁術の下へやってきた。どういう経緯があったか不明だが、朱儁は中牟に駐屯して北(から来る董卓軍)に備え、袁術は背後に憂いを持つことなく南方の劉表討伐乗りだすことになる。袁術は対劉表戦を起こし、その総帥として孫堅を派遣した。劉表董卓から任命された荊州刺史であるだけでなく、この歳の後半、豫州刺史の任命を機に生じた袁紹袁術の争いで袁紹側についていた。また、この頃までに荊州中部の有力豪族蔡瑁<さいぼう>・赫*萌*越<かいえつ>らの輔弼を受け、まつろわぬ他の豪族らを賊として誅戮し兵力を吸収、襄陽を拠点に群雄としてやっていけるようになっていたのである。190年から191年前半までは必要性の無かった劉表の排除は、この時行わなければならない状況となっていた。

ニセクロさんの分析 袁術くんHiより抜粋


周昂
袁紹の命を受け、陽城(袁術の指示で董卓と戦っていた孫堅の拠点)を攻め落とす。袁術孫堅公孫越を派遣して反撃してくると、迎え撃って公孫越を討った。後に九江太守となるが、袁術軍の孫賁(そんほん)に攻められ、陰陵で敗れた。

袁紹派の周昕(? - 196)、周昂、周喁の動き。ちなみに3人は兄弟

丹陽太守
周昕 (袁紹)  vs 孫賁
194年 孫賁の勝ち (資治通鑑による)

九江太守
周昂 (袁紹) vs 袁術
袁術不戦勝
193年 寿春攻略戦の最中、外交的孤立のため
周昂 (袁紹) vs 孫賁
193-194年 孫賁の勝ち。周昂は陰陵で敗れた。

豫州刺史・牧 (三国漢季方鎮年表 清萬斯同撰から抜粋)
189 黄琬 (牧・朝廷) 孔伷 (朝廷)
190 孔伷 (朝廷) 孫堅 (袁術) 冬に死亡
191 周昂 (袁紹)
192 郭貢 (?) 周昂 (袁紹) 孫賁 (袁術)
193 郭貢 (?)
194 郭貢 (?) 劉備 (陶謙
195
196 劉備 (牧・曹操)
202 陰夔 (曹操)
まぁ、孫堅孫賁 → 郭貢だと思うよな。

揚州刺史 (三国漢季方鎮年表 清萬斯同撰から抜粋)
192 陳温 (朝廷) 袁遺 (袁紹) 袁術が討つ 陳瑀 (袁術)
193 陳瑀 (袁術)
194 劉繇 (朝廷) 孫策 (懐義将軍 / 袁術)

袁紹がちょっかいを出して、ほぼ全敗。
袁紹ってのは、自分が主役でないと気が済まないタイプに見える、袁術にこれほどちょっかいを出すとは。
後に、必要以上に力を誇示したい面を認める。臧洪の例とか

二袁の戦いは袁紹によって引き起こされました。

07回 創作メモ 雑多 (1)

張燕
袁紹公孫瓚冀州の領土を争ったとき、張燕は将軍の杜長らを派遣して公孫瓚に味方して袁紹と交戦したが、袁紹に討ち破られた。《張燕伝》(2-121)

191年7月の冀州魏郡への侵攻ではない。

于毒
192年春 于毒は曹操が頓丘に出陣した隙を狙い、曹操の本拠地であった東武陽を攻撃した。ところが曹操は、さらにその裏をかいて于毒の根拠地を急襲した。慌てて于毒は引き返したが、途中で曹操軍の伏兵に遭い、眭固と友軍の於夫羅が撃破されるという敗北を喫している。
ほかには http://www.project-imagine.org/mujins/3pedia.php/%E4%BA%8E%E6%AF%92

 
眭固
于毒・白繞と共に10余万の軍勢で魏郡を攻略、東郡太守の王肱 (1-23~24) を撃ち破った。しかし、翌年に曹操率いる討伐軍に敗北した。

黒山賊の于毒、白繞、眭固らが反した。十余万の衆が魏郡を略し、東郡(太守)王肱は御することあたわず、太祖曹操は兵を引いて東郡に入り、白繞を濮陽県で撃ってこれを破った。袁紹は(この功績に)因って、表して太祖を東郡太守に為し、東武陽県に政庁を置かせた。《武帝紀》(1-24)

 他には http://www.project-imagine.org/mujins/3pedia.php/%E7%9C%AD%E5%9B%BA


曹操
四年 (193年) 荊州の牧 劉表袁術への糧道を絶った。《武帝紀》(1-28)

 鄄城に入った後。袁術との会戦前のタイミング
後の袁術との会戦においては黒山賊於夫羅袁術に味方している。
袁術は軍を率いて陳留郡に入り、封丘に駐屯し黒山の残賊と於夫羅が彼を助けた。袁術は将軍の劉詳を匡亭に駐屯させていた。太祖は劉詳を攻撃し、袁術が駆け付けると合戦してこれを大いに打ち破った。袁術は対棄却して封丘を守った。かくて彼を包囲したが、包囲網が出来上がらないうちに、襄邑に逃走した。追撃して、太寿までくると、掘割の水を決壊させて城に注いだ。袁術は寧陵に逃走したので、またそれを追撃すると、袁術は九江に逃走した。
夏、太祖は引き返して定陶に陣を置いた。」《武帝紀》(1-28)

袁術は戦下手ではない。会戦前に仮想敵を包囲できるよう外交的・調略的な配慮を周到にしている。対曹操戦 at 兗州、寿春攻略戦、徐州攻略戦 at 劉備、みんなそうだ。相手に恵まれなかっただけ、曹操がバケモノだっただけ。

194年の張邈蜂起の際も、もし袁術が絡んでいたなら、どこかにその断片が残ってるはず。豫州刺史の郭貢。なんか決め手があればなぁ

劉詳
?。劉祥と同一人別かなぁ

 程昱
194年冬~195年正月の間かな?
曹操袁紹に下る (麾下に入る) のを止める。(3-15~16)

豫州刺史問題
拝読。なるほど。
http://gosyokenbun.com/custom184.html
http://3guozhi.net/c/ysu.html
しかし、袁術派の人間と思えないのは
https://twitter.com/1xuVLqH3kQ/status/1203243573610549248
このやり取りの通り。おいらが感じてた疑問もそう。
袁紹派ではないこと (荀彧らに味方してないから) は明らかだけど・・・。

前年、袁術曹操にこっぴどくやられてる。これもうトラウマですわ。
しかし、ぜっかく兗州がごたごたしてる、これはチャンス。とりあえず様子見で郭貢が・・・。というのはありえそう。
漁夫の利を狙ってた袁術
2-235 荀彧伝の記載とも矛盾しない。「郭貢と張邈は立場上平素から結託していたわけがない」の下り。

正し豫州汝南郡汝南県は袁家の本籍地、袁家の地盤だ。
袁術側の人間であるか、そうでなくとも袁術の影響を受けた人だろう。

陳宮袁術プロデュースで仕組まれたものなら、外交的。調略的にもうちょっと仕掛けがあってもよさそう。

ただ、この後も袁術は張邈・呂布に加担してない。翌年の曹呂の第二ラウンドではこれと言って動いてないからね。
寿春攻略が忙しいし、余計な欲は出さないに限る。
「オレは寿春攻略に忙しいし、今から仕掛けするにも時間が足りない。それに張邈・呂布曹操が潰し合ってくれるならそれも良し。あー長引かないかな。でも、袁紹が本腰いれて出てくるかも。それはあんまり嬉しくないなぁ」
という感じだろうか。
袁術がこの争いに参加するのは舞台が徐州に移ってからだ。呂布劉備から徐州を奪うところね。
紀霊を送って徐州を取ろうとする。郝萌・陳宮を使って反乱を起こさせる、息子の嫁に呂布の娘を欲しがる。あたり。
しかし呂布は首を縦に振らない。陳珪・陳登の言を入れておバカで危険な火遊びを始める。
「俺をより高く買ってくれる方に味方するよ。」
この時呂布曹操袁紹にもつかない第3勢力だった。

袁術は面白くないだろうし、曹操は危険だと思う。この頃は対袁紹戦が視野に入っているがら。(荀彧伝 2-248)

かくて呂布の命運は決まった。

陳宮 (裏切り者 = 袁術の回し者) の出番はない。
陳宮の運命も決まった。

 

07回 創作メモ 名士について (2)

王肱 生誕地不明
劉岱 徐州
万潜 生誕地不明
薛悌 兗州東郡

接点か見いだせないなぁ
郭嘉、戯志才なんかと同じように、世間から距離を置いていた人だったかもしれない。
余談だが戯志才は196年 献帝擁立後に仕え、郭嘉の出仕が199年だから。短いな。

曹操が東郡太守になったのが191年だから、東郡出身の陳宮が出仕したのもこの頃だろうな。
荀彧は191年。程昱は192年。
陳宮は「(曹操兗州支配のため) 先行して兗州に赴き、別駕や治中などを説得して回った」って言ってるが、程昱はこのころの官職は不明なため恐らく面識はないと思われる。生活圏は程昱が一番近いんだけどなぁ。
程昱は出仕すると寿張県令を代行させた。
荀彧は太守の属官だろうか?意見を求めてるようだし、曹操の側近くに居られる職だろう。曹操兗州牧、鎮東将軍になると、その司馬になる。
じゃぁ、陳宮はというと将?だったのか。いまいち立ち位置が分からない。現実は東郡の守備をまかせて徐州へ行ってる。

Wikipediaなんかは「当時、智謀の士として名声が高かった陳宮であるが」といってるが、根拠を知りたいところ。
荀攸の評陳宮は智謀こそあるが、決断が遅い」が独り歩きしてるんじゃないのか?
曹操配下における有望株という位置づけだろうか?

面白いものみっけ
豫州刺史は袁紹側の周昂または周喁と、袁術側の孫堅がそれぞれ任命され争い、孫堅が勝利した。
周昂は、袁紹に任じられ豫州刺史、後に九江太守を歴任。袁術と個人的になんかあるのかな?袁紹袁術の邪魔をするときは必ず、この人を使う。(まぁ、周昕、周昂、周喁がごちゃ混ぜになってる感はあるけど)
→周喁が豫州刺史、周昂が九江太守だね

本題に戻って、陳宮は名士だったか?
おいらはNoだと思う。
もし名士だったらそのネームヴァリューを利用して故郷の東武陽県の県令ぐらいさせてそう。名声があった陳宮というのはイメージしにくい。
ただ将にはしてる。私兵を持っていたから?わからん。

陳宮は智謀の士だったか?
No。
実績だけみると、縦横家の面がより強い。

謀反の動機は?

  1. 曹操軍で新参の参謀であ荀彧程昱らが台頭し始めた事による嫉妬、反発 
  2. 徐州で曹操が行なった大量虐殺への失望 
  3. 張邈が呂布と手を結んだ事に激怒した袁紹曹操と組んで自分を殺害しようとしているのではないかと猜疑していた。

1はちっと違うんじゃないかと。
そもそも陳宮が参謀であったという裏付けがない。
2は、ないとは言えないが、それだけで裏切るかなぁ、幾ら儒教思想が蔓延してたと言ってもねぇ。それに第一陳宮自身が儒教的ではない。
3は史書的に読み取れるが陳宮が叛いたことの説明にならない。

おいらは
覇王の業を説いて曹操兗州牧に据えたのに、当の曹操兗州の事も省みないで袁紹チームの戦ばっかりで愛想が尽きた。もそっと兗州のこと考えろよ」と言った線に落ち着くかな?