第15回 荊州貸与問題 (廿二史箚記より) Part1

 


プーさん (made in Chaina) と迷惑な仲間達の傍若無人ぶりが止まりませんね。
尖閣海域への海警の侵入は104日連続だし 

www.sankei.com

(産経新聞 2020/07/26 https://www.sankei.com/politics/news/200722/plt2007220003-n1.html)

中国外務省報道官の物言いも、神経を逆なでするモノでした。

www.youtube.com

(abema News 2020/07/22 https://www.youtube.com/watch?v=PDH_5x_uG20)

www.nikkei.com

(日本経済新聞 2020/07/22 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61874870S0A720C2FF8000/)

しかし、まぁ本題はそっちではなく、孫呉が主張した荊州貸与問題が動画の主題です。
尖閣問題同様、こっちも無理筋なのですが、結構まかり通ってしまいましたw。
# 裴注三国志の呉書は、私の記憶が確かなら、三国志 (陳寿著) の呉書は、韋昭著の呉書の影響を強く受けているそうなので、韋昭の記載がそのまま残ったのかもしれませんが・・・

荊州貸与問題とは何か?
平たく言えば「劉備は領地を持たぬただの傭兵隊長だから、呉が荊州の土地を貸してややるよ。益州分捕ったら荊州の土地は返してね」っていう、まぁ例の話です。

荊州貸与問題の論拠
清の史学者 張翼は、著書 廿二史箚記の中で、孫呉が主張した荊州貸与説は捏造に過ぎないと論じた。(廿二史箚記wikiから読めます。97. 借荊州之非)
その根拠として

  1. 赤壁にて曹操を撃破したのち、周瑜が南郡太守となり、長江南岸の地を分割して劉備に与えた。そして劉表の官吏兵士のうち曹操軍から逃げ帰った者たちは、みな劉備に身を投じてきた。劉備は与えられた土地では供給するには不足していたため、孫権から荊州の数郡を借用した。(先主伝が引く「江表伝」)
    実際は赤壁の後、周瑜劉備にあてがったのは公安 (油江口) だけで、長江南岸の地というと、ちょっと語弊があるような気がする。
  2. 劉備が京に参詣して孫権にまみえ、荊州を都督したいと求めたとき、魯粛は彼に貸してやって共同して曹操に対抗せよと孫権に勧めた。(魯粛伝)
  3. 劉備益州攻略後、魯粛関羽に会って荊州の返還を求め、関羽に告げた。「我が国が卿の家に土地をお貸ししたのは、卿の家の軍勢が敗れて遠方から来られ、元手を失ったものと思ったからである」。(魯粛伝)
    215年の単刀赴会のことですね
  4. 孫権もまた、魯粛には二つの長所があるが、ただ玄徳へ土地を貸すよう吾に勧めたのは短所の一つである、と論じた。(呂蒙伝)

の4点を挙げた。

この4点に共通していることは、

  • 全部呉の書物からの引用であること
  • 荊州貸与は魯粛が積極的に推進していた

ってこと。
魯粛は呉きっての親劉備派だから、「荊州貸与」を推進したと思われる。


趙翼は、
荊州貸与説の出所は、いずれも呉の人々の記述である。
そもそも「貸す」というのは、自分がもともと所有している物を他人に貸し与えることである。荊州はもともと劉表の土地であって、孫氏の本来の持ち物ではないのだ。
曹操が南下した時点では、孫氏の江東六郡は自分たちを守りきれないことを恐れるのが精一杯、諸将はみな曹操を迎え入れるよう孫権に勧めたほどであったが、孫権はただ一人それを希望しなかった。ちょうど劉備諸葛亮を派遣して友好関係を結ばせてきたので、孫権はようやく劉備 (の力) を借りて一緒に曹操を防ごうと思うようになったのだ。
このときはただ曹操に対抗することだけが望みであって、まだ荊州を獲得しようとまでは思っていなかったのである」。
と論じて、孫呉荊州貸与説を否定している。

赤壁における劉備の貢献
次に張翼は、孫権が如何に劉備を頼っていたか、劉備がどれだけ大きな役割を果たしたかを列挙する。

  1.  諸葛亮孫権を説得したとき、孫権はすぐさま「劉豫州 (劉備のこと) でなければ曹操に対抗できる者はない」と言い、周瑜・程普らを派遣して諸葛亮とともに劉備に参詣させ、力を合わせて曹操を防いだ。(諸葛亮伝)
    これは (孫権が) 劉備を対曹操の主役に立て、自分は脇役になろうとしたということであろう。
  2.  諸葛亮はまた、「将軍 (孫権) がもし豫州殿 (劉備) と心を一つにして曹操を破ることができたなら、荊・呉の勢力は強くなり、そして鼎足の形は完成するのです」とも言っている。これは当時すでに三分の説が存在し、孫権荊州攻略を依頼してそれを借用したのではないということである。(諸葛亮伝)
    周瑜は天下二分の計を説き、諸葛亮魯粛は天下三分の計を説いていた。
  3.  赤壁の合戦では周瑜劉備が一緒に曹操を撃破しており (呉志)、華容の戦役では劉備が単独で曹操を追撃しており (山陽公載記)、そののち南郡において曹仁を包囲したときも、劉備はやはり陣中に身を置いており (蜀志)、一度たりとも呉の兵力が単独で出されたことはなく、劉備が何もせずその成果を横取りしたわけではないのだ。 

劉備孫権に借りなんてないですよ。ということだろうか?
曹操荊州出兵から劉備を守り、兵も領地も嫁も、何から何まで世話してやった」などと言うのは孫呉による悪質な捏造である。
趙翼の説を採ればそうなる。
でも、糧秣は孫権に手配して貰ってたんじゃないのかなぁ・・・?

趙翼は、勝利への貢献度合いはほぼ50:50だよと、そういうことが言いたいんだと思う。
でもやっぱり食料のことが気になる・・・

208年 7月 曹操、兵を率いて南下開始 (荊州侵攻)          
  8月 劉表が病死          
  9月 劉琮、曹操に降伏          
    長坂の戦い 劉備 × vs 曹操
    魯粛孫権と同盟するように劉備に勧める。*1          
    劉備諸葛亮を使者として孫権の元に派遣する。*1          
    孫劉同盟締結          
    赤壁・烏林の戦い 周瑜劉備 vs 曹操 ×
    華容の戦い 劉備・(周瑜) vs 曹操 ×
    曹操曹仁を江陵に、楽進を襄陽に残して撤退。          
  南郡攻防戦 周瑜張飛 vs 曹仁 ×
  ? 荊州南部4郡 (武陵、長沙、桂陽、零陵) の戦い 劉備 vs 金旋 ×
            韓玄 ×
            趙範 ×
            劉度 ×

上表は赤壁の戦い近辺の出来事をまとめたものだが、こうしてみると孫権劉備は協力して事に当たっていたことが明白だと思う。

さて、戦が一段落したところで領地を見てみると

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まぁ。江夏郡南部は、建安13年 (208年) 孫権自ら指揮を執って、黄祖から奪っているけどね

劉琦・劉備の一人負けなのかな。
劉琦は、赤壁の戦いの直後、劉備によって荊州刺史に擁立されるが、209年に病没し、この後劉備孫権荊州占有権抗争が勃発する。

劉表荊州牧だった。
刺史にはしても牧にはしない劉備の対応は、「劉琦に軍権は渡さない」という意思表示なんだろうか?

ただ、周瑜の死後 (210年)、その任を魯粛が継ぐと、魯粛は江陵から陸口に退き、江陵を放棄した。放棄した理由はわからない。

魯粛を奮武校尉に拝し、周瑜に代えて兵を治めさせた。周瑜の手勢の四千余人、奉邑の四県もみな属した。程普に命じて南郡太守を兼ねさせた。
魯粛ははじめ江陵に駐まり、後に下って陸口 (湖北省咸寧市嘉魚) に駐屯した。
(裴注三国志 魯粛伝)


■ 敵も味方も評価した劉備
趙翼は続けて「曹操孫権がどれだけ高く劉備を評価していたかを挙げ、劉備荊州を領有したのは劉備の実力である」と論じた。

  1. 曹操を撃破したのち、劉備は京に参詣して孫権にまみえ、孫権は妹を彼に嫁がせた。周瑜は密かに上疏して劉備を京に留めるよう求めたが、孫権は聞き入れず、英雄とは長く手を取り合うべきだと考えた。
    これは劉備荊州にいて曹操の抑えとなってくれることを、孫権が期待したということである。 
  2. 曹操は逃走して華容の難所を抜けたとき、喜びながら諸将に「劉備は吾の同類
    であるが、ただ計略を思い付くのが少しばかり遅かったな」と言った (山陽公載記)。
    これは曹操劉備を英傑と認め、孫権を英傑とは認識していなかったということである。
    これは曹操が指折り数える者に劉備だけが入り、いまだ孫権には言及されなかったということである。
    まぁ、山陽公載記は、裴松之によれば、「穢雑虚謬 (わいざつきょびゅう)」と批判している。
    穢雑虚謬とは、下品でいい加減な言説。と言った意味だろうか?
    字面を見れば雰囲気が伝わってくる。
    山陽公載記の記載だから、これは眉唾と差し引く。
  3.  程昱は魏にいて劉備が呉 (京口) に入ったと聞いた。論者の多くは孫権が必ずや劉備を殺すであろうと言ったが、程昱は「曹公は天下に敵う者なく、孫権は対抗することができない。劉備には英名があり、孫権は必ずや彼を支援して我らを防ごうとするはずだ」と言った (程昱伝)。
    これは魏の人々もまた劉備だけを指折り数えて、いまだ孫権に言及していないということである。
  4.  兵力について論ずるならば、諸葛亮は初めて孫権に謁見したとき、「兵士のうち帰還した者 (長坂の戦い等の敗残兵) と関羽武装した精鋭は合わせて一万人になり、劉琦の戦士もまた一万人を下りません」と言っている。そして孫権の派遣した周瑜らの水軍もやはり三万人に過ぎず (諸葛亮伝)、孫権劉備の十倍の戦力を有していたとまではいかないのである。
    兵力はともかく、糧秣はどうしたんだろう?
    兵がいても食えないんじゃぁ仕方ないよね、その糧秣は孫権が提供してたと思うんだけど・・・。
    劉備は寄辺がなく、孫権の援助がなければ雲散霧消したであろうことは疑いようがないのに・・・・

    「ただ、劉備は兵を出して協力する。
    孫権は食料を出してくれ。」
    っていう条件ならバーターできるのかなぁ、とは思う。
  5.  劉表の長子劉琦はなお江夏にあり、曹操を破ったのち、劉備は劉琦を荊州刺史にするよう上表しているが、孫権は一度たりとも異論を唱えていない。
    荊州はもともと劉琦の土地だったからである。
  6.  劉備は同時に四郡を南征すると、武陵・長沙・桂陽・零陵はみな降服し、劉琦が死去すると、群臣は劉備を推戴して荊州牧とした (蜀先主伝)。
    劉備はそこで諸葛亮をやって零陵・桂陽・長沙の三郡を監督させ、その租税・賦役を収めて軍需物資に充てた (諸葛亮伝)。
    また関羽を襄陽太守・盪寇将軍として江北に駐屯させ (関羽伝)、張飛を宜都太守・征虜将軍として南郡に在留させ (張飛伝)、趙雲を偏将軍・領桂陽太守とし (趙雲伝)、将軍たちを派遣して各地に進駐させている。
    おそらく劉備の処置について最初から孫氏に 報告しなかったのは、もともと孫権の土地ではなかったからであろう。だからこそ劉備孫権に報告する必要はなく、孫権もまた劉備を阻害してこなかったのである。

 

張翼の結論
趙翼は以上のように論証した上で、「『荊州貸与説』は孫呉の捏造である」と結論付けている。

趙翼曰く、
 「 天下の形勢が定まると、呉の人々は赤壁の戦役を思い起こし、「劉備の勝利は、呉が兵力を貸したからこそ得られた」と言い出し、遂には「荊州は呉が所有すべきなのに、劉備が占拠してしまった」と言った。
ここに至って初めて『荊州貸与説』が提唱されたのである。
 そもそも協力して曹操に対抗したときを思い起こせば、劉備孫権に貸しがあり、孫権には劉備に貸しがなかったのだ。そのときの孫権は、ただ自分の危機を救うのに精一杯で、どうして荊州攻略の野心を持つことができたであろうか。
 (215年、荊州領有を巡っての争いが生じたとき、いわゆる単刀赴会) 関羽魯粛に対して言った、「烏林の戦役では、左将軍 (劉備のこと) は寝るときも具足を解かず、協力して曹操を打ち破りましたが、ただ働きをさせておいて一塊の土地さえ与えないとは道義に悖る」とは (魯粛伝が引く呉書)、これこそ永久不変の議論であろう。
 その後、呉・蜀が三郡を争奪することになったが、一転して湘水を境界として和議を結び、長沙・江夏・桂陽は呉に属させ、南郡・零陵・武陵を蜀に属させたのは、最も公平適切な取り決めであった。

江夏郡は先述の通り、建安13年 (208年) 黄祖を討って以来孫権が領有しているので、なんでここに出てくるのか不思議

 それなのに呉の君臣は、関羽の北伐の隙を突いて荊州を襲撃してこの地を占拠し、あろうことか荊州貸与説を捏造し、奪われたものを取り返したのだと主張するに至った。
 こんなものは呉の君臣による狡猾な詭弁に過ぎないが、荊州貸与という言葉だけが一人歩きして現在に伝えられている。荊州貸与は一つの物語として完成され、論破できないほど (思い込みは) 堅牢になった。そうした曲解が巡りめぐって蜀にも伝わっているが、それらは聞きかじりの議論なのである。」

というワケで、孫呉の本質は強盗である。としたい。
# まぁ、戦乱の時代なら仕方ないか・・・。

■ 荊州貸与論は暴論か、正論か

1. 劉琦は劉表の後継者だったのか?
 劉表は劉琮を後継者指名していた。

劉表の妻への愛は少子の劉琮に及び、後嗣にしようと考え、しかも蔡瑁・張允はその支党となり、かくして長子劉琦を出して江夏太守とし、人々はかくて劉琮を奉じて後嗣とした (裴注三國志 劉表伝)。

劉表は初めは劉琦が自分に似ているから愛したが、後妻の蔡氏の姪を劉琮に娶らせた事で蔡氏が劉琮を支持し、劉琦を事毎に讒言した。
蔡氏の弟の蔡瑁と、外甥の張允が寵遇された。劉琦は諸葛亮に諮り、殺された黄祖の江夏太守に転出した。 
劉表が歿すると劉琮は劉琦に侯印を授けたが、劉琦は怒って地に擲ち、喪に乗じて挙兵しようとした。たまたま曹操が新野に達したので江南に走った。 (後漢書 劉表伝)

曹操の軍が襄陽に到ると、劉琮は州を挙って降った。劉備は夏口に走奔した。(裴注三國志 劉表伝)

 赤壁の役の後、劉琦は劉備の上表で荊州刺史となり、明年に没した。(後漢書 劉表伝)

でも劉琦は権力闘争に敗れ、後継者指名から外れ江夏太守に転出される。
代わって、劉琮が後継者 (っぽいポジション) になるが、曹操の侵攻を受け、州を挙げて降伏してる。劉琮はその後青州刺史になっている。

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この時の各人の思惑は、
曹操「劉琮が降伏したことで、荊州も漢室の手に戻った。李立、とりあえず荊州刺史頼むわ。」
劉備「劉琮なんて群臣に誑かされただけだ。これからの荊州は劉琦様を統治するんだもん」
孫権「そうだな。劉琦様の統治に委ねよう (どうせすぐ死ぬだろう)。その後は・・・。
荊州は長江上流にあたり、首都防衛上の要地だから、直接統治こそが望ましいんだよ」
といった当りと推察する。
実際後世モンゴル軍が南宋を征服したとき、長江沿いに水軍を進め、南宋を攻略してるぜ。

正統性としては曹操の論が一番明快。荊州は漢室のもの。
ただ、劉表の死の混乱期に曹操の侵攻があったもんだから、劉表の後継者が誰か公にされていなかったことに劉備が乗じて劉琦を担ぎだした。ってことなんじゃないかと思う。

いずれにしても、張翼の「荊州劉表のもの」っていうのも全面的に賛成するには無理だけど、「孫権のものではない」ことを証明するには十分だと思う。

2. なぜ孫呉荊州の領有を主張したか?
孫呉の立場で考えれば、曹操に売られた喧嘩を買っただけとはいえ、曹操を追い出すのに相応の犠牲は払った。その分け前を要求するのは当然だと思う。
孫呉赤壁以前も荊州劉表と戦っており、荊州支配は孫呉の国策であったコトも無関係ではないだろう。

曹操の手前、声高に「分け前よこせ」と言えないから、劉琦が荊州を継承することはしぶしぶ認めたが、劉琦病没後、劉備荊州牧となって荊州を継承することは認め難いものだったと思われる。
よって、孫呉荊州を望むことには相応の理由があり、ある程度、納得できることだろう。


しかし、現実的に考えれば、劉備荊州牧となって、荊州を統治することは最善策であったと思われる。
趙翼も言っていたが、「劉表の官吏兵士のうち曹操軍から逃げ帰った者たちは、みな劉備に身を投じてきた」(裴注三国志 先主伝が引く「江表伝」)、「(新野から撤退する途中) 劉琮の側近や荊州人の多くが劉備に帰服した。当陽に至る頃には人々は十余万、輜重は数千輛となっており、一日の行程は十余里に過ぎなかった」 (裴注三国志 先主伝)。
との記載があることから、荊州の士人はもとより、荊州の民衆も劉備に懐いており、劉備荊州牧を推戴されるのは自然な流れと思われる。
そもそも孫権荊州の地を治めて、劉備より上手く統治できる保証なんてないのだ。

ちなみに劉備荊州牧推戴とその後について、裴注三国志の各伝によって記載が微妙に異なっている気がする (ニアンス的な意味で・・・。
まずは先主伝。

劉琦が病死し、群臣は先主を推して荊州牧とし、公安にて治めた。(先主伝)

 推戴したのは、(劉備の) 群臣と言うことになっている。

劉備が上表して孫権を行車騎将軍・領徐州牧とした。劉備は領荊州牧として公安 (湖北省荊州市) に駐屯した。(呉主伝)

 なんか、劉備孫権の部下であるかのよう・・・。

孫権周瑜を偏将軍に拝し、南郡太守を領ねさせた。(長沙の) 下雋 (湖北省咸寧市通城)・漢昌 (岳陽市平江)・劉陽 (長沙市瀏陽) と (南郡の) 州陵 (仙桃市) を奉邑とし、江陵に屯拠した。
劉備は左将軍・領荊州牧として (江陵の対岸の) 公安 (湖北省荊州市) にて治めた。(周瑜伝)

 周瑜伝でも同様。
ちゃっかり荊州の土地を周瑜に封じてるね。この4つの封邑が周瑜の死後魯粛に引き継がれる。
なんか呉書の記載だと、劉備を部下のように扱ってる気がするんだよなぁ・・・。

3. 荊州貸与説と魯粛
劉備京口に赴くき孫権に参詣すると、周瑜孫権に上疏してる。

劉備は梟雄の資質があり、しかも関羽張飛という勇猛無比の将を配下にしています。必ずやいつまでも人の下に屈して他人の命令に従っている者ではありません。
愚孝しますに、劉備を呉に留め置き、宮殿を築き、美女や愛玩物を多数集めてその耳目を娯しませ、関羽張飛を分けて別々の地方に配属し、私の様な者が彼らを使って戦いを進めれば、大事を定める事が出来ましょう。
(裴注三国志 周瑜伝)

 孫権はこの策を容れなかったが、妹 (いわゆる孫尚香) を劉備に嫁がせ、友好関係を保っている。もしくはアピールしてる。
この策は呂範も進言していたらしく、魯粛伝が引く「漢晋春秋」に記載がある。
ちなみに、龐統伝が引く「江表伝」には、龐統が、劉備を呉に留め置くように周瑜に献策したとある。だから諸葛亮は (劉備京口に赴くことに) 反対していたとの記載も見える。

ここで魯粛孫権に献策する。

 劉備荊州の都督にならせてほしいと求めた時、魯粛だけが、荊州の土地を劉備に貸し与え、共同して曹操に抗するのがよい。と勧めた。
曹操は丁度手紙を書いていたが、孫権劉備荊州の土地を分け与えて劉備の後ろ盾 になったことを聞くと、その筆を床に落とした
(裴注三国志 魯粛伝)

これが「荊州貸与説」の (時系列的な意味で) 初出だと思うんだけど、色々とアヤシイ。

まずは「劉備荊州の都督にならせてほしいと求めた時、魯粛だけが、荊州の土地を劉備に貸し与え」って部分。

1. 劉備は既に荊州牧なのに、どうして「都督にして欲しい」なんて言う必要があるの?
 また、劉備は既に荊州南部4郡を実行支配してるのに、都督を求める理由があるの。

劉備荊州統治に行き詰ってたならわかるけど (都督が軍司令官であることを考えれば、特に軍事的に行き詰ってた。もしくは軍事面での脅威があった)、もちろんそんな事実はない。
諸葛亮をやって零陵・桂陽・長沙の三郡を監督させ、その租税・賦役を収めて軍需物資に充ててた (裴注三国志 諸葛亮伝) ぐらいなんだもん。
また、荊州南部4郡を平定してから配下の諸将を各地に送っている。

2. 独立癖がある劉備が、どうして地位をねだるの?人となりに合わないんじゃねぇ?
  また、都督になれば立場的に孫権の優越的地位を認めることになるがそれでいいの?

劉表に身を寄せてた時代だって食客扱いだったし、孫権に何か役目・職権・地位官職をもらえば、それは孫権の優越的立場を認めることになる。
孫劉の関係って、あくまでも対等じゃなかったのかなぁ?
実質的に荊州牧の立場を捨ててまで、孫権の下に甘んじる必要ってあるの?

っていうあたりに凄く違和感を覚える。
多分これって、陳寿が「三國志 呉書」を執筆するに際して下敷きにしたのが、呉の朝廷が編纂していた「呉書」(韋昭 著) だったから、呉に都合よく書かれてただけじゃねぇ?
真に受けた陳寿もどうかと思うけど・・・。

実際は魯粛がおもんばかって、曹操に付け入る隙を与えないように知恵をつけた、平たく言えばペテンにかけたってことだと思う。
それは、孫呉に漂ってた「孫呉の分け前を寄越せ」ってのを「荊州の貸与」っていう風に誤魔化した。もしくは玉虫色に事だろう。
そして、それは劉備も了承していたところだろう。

曹操に付け入る隙を与えないためには、この時点でコトを荒立てることはできない。ってのが、孫劉両者の評通認識だったと思う。

----と言うのが私の解釈
----本動画では、この解釈を採用してます。

しかし、実際には劉備が借りていた可能性もある。

周瑜が死去した後、彼がかわって南郡太守の任にあたった。
孫権荊州を分割して劉備に与えると、程普は再び戻って江夏を収めることになった。(裴注三国志 程普伝)

※ 「孫権荊州を分割して劉備に与えると」は215年 単刀赴会のことだと思われる

 とか、

(周瑜が危篤に陥ると、孫権周瑜の上疏に従って) 魯粛を奮武校尉に任じ、周瑜に代わって兵を率いさせた。周瑜配下の軍勢四千余人と、所領の4県 (下雋・漢昌・劉陽と州陵) も、ともに魯粛に属することになった。また程普が南郡太守の職務を執ることが命ぜられた。
魯粛はもともと江陵に軍を置いていたが、のちに長江を下って陸口に駐屯した。(裴注三国志 魯粛伝)

と記載がある。

江陵は、周瑜が南郡攻防戦で曹仁から奪った江陵は、いつ劉備のものになったの?
魯粛は何故兵を引いたの?撤退したの?劉備が借りたんじゃないの?
しかし、

劉備益州を平定を完了すると、孫権は (貸し与えてあった) 長沙・零陵・桂陽の返還を求めた。 (裴注三国志 魯粛伝)

とあり、江陵は (南郡) は含まれていない。
これは実に不可解なことだと思う。
劉備が獲った、長沙・零陵・桂陽を返せと言い、周瑜が獲った江陵 (南郡) の返還は求めない。江陵は長江沿いの要地なのに、何故だろう?

荊州貸与説』にも一定の傍証らしいものが「三國志 呉書 (陳寿 著)」の中にも見受けられるが、「呉書」にしか書かれてないので何とも言えない。

もし、『荊州貸与説』を正するならば、
1. 長坂の戦いで曹操の追撃を振り切り、関羽と合流する。
2. しかし、襄陽、江陵など主要な要地はあらかた曹操の手にあり、兵を養うことに窮した。
3. それで、食料の問題を解決するため諸葛亮を使者とし、孫権に救援を求めた。
4. 孫権魯粛の意見を入れ、劉備と同盟した。
5. 赤壁曹操を破り、続く南郡攻略戦でも勝利を収めた。
 南郡攻防戦の最中、劉備周瑜の承認の元、荊州南部4郡の攻略に向かい、4郡を平らげた。(劉備孫権配下、もしくは、それに準ずる形での参戦である)
6. 劉琦を荊州刺史に上表。劉琦の死後、群臣によって劉備荊州牧に推戴される
7. 京口に赴き孫権に参詣するし、都督をねだる。なぜなら未だ食料供給に見通しが立たず、孫権の助力を必要としていたからである。
孫権魯粛の献策を受け入れて、荊州数郡を貸し与え、劉備軍の食料問題を緩和する。
8. 劉備益州を落とす。= 劉備軍の食料不足が解決される。
9. 劉備益州ろ獲って、孫権からの独立を画策する。
10. 孫権ブチ切れ。
11.単刀赴会で貸していた長沙・江夏・桂陽を取り戻す。
ってことになるだろうか。。。

 4. 単刀赴会
話は劉備京口孫権を参詣した時まで遡る。
この時孫権劉備にこんな提案をしていた。
孫権劉璋はバカだから、蜀を獲ろうと思うんだけど、どう思う?」
劉備劉璋はバカで間抜けなおたんこなすですが、私と同じく漢室に連なる身。それだけはご勘弁頂ければ幸いです」
孫権「うーん、そうか。残念だけど劉備がそういうんじゃ仕方ないね」

益州劉璋の統治は弛んで体を為していなかったことから、周瑜甘寧は揃って孫権に蜀を奪ってしまうことを勧めていた。孫権劉備にこのことを相談した。
劉備は密かに蜀を奪うことを考えていたため、心を偽って返答した。
「私と劉璋とは、ともに漢の宗室に連なる者として、先帝方の御霊威をお借りして漢朝を立て直したいと思っておりました。今劉璋は、陛下のお気持ちに沿わぬこととなり、私としてはただただ心をおののかせるばかりで、何もよく申し上げられないのですが、どうか彼のためにお目こぼしを願うばかりです。もしお許しが得られるのであれば、私は官冠を棄てて山林に隠居する覚悟です。(裴注三国志 魯粛伝) 

214年5月 劉備劉備は単独で劉璋を降伏させ、蜀を奪い取ってしまう (劉備の入蜀)。
これにブチ切れたのが孫権
7月 孫権劉備に「荊州を返せ (= 分け前をいい加減に寄越せ)」と要求したが、劉備の返答は「涼州獲ったら返すね」とバックレる気満々。
215年に入ると孫権は軍を動かし、荊州で孫劉両軍が衝突するに至った。

この年劉備が蜀を平定した。
孫権は、劉備益州を手に入れたことを理由に、諸葛謹を使者に立て荊州の諸郡 (長沙・零陵・桂陽) の返還を求めた。
しかし劉備は「いま涼州を狙ってるので、涼州を平定したら荊州をそっくり呉に与えよう」を言って拒絶した。
孫権は「借りたまま返すつもりがなく、上手く言って引き延ばそうとしているのだ」といって軍を動かした。(裴注三国志 呉主伝)

劉備は急いで公安に取って返し、また関羽も出陣した。
一方孫権魯粛呂蒙らに命じて荊州諸郡を攻めさせ、孫権自身も陸口まで出陣した。
交戦も少なからずあったのだが、それは省く。

赤壁の折は呉から一歩も動かなかった孫権だが、この事態においては陸口まで赴いている。
もう我慢できないという気迫の表れであろうか?
それとも、決済が必要となったとき、スピーディに処置できるようにとの判断だろうか?

益陽にて関羽魯粛によって会談 (単刀赴会) があったが、結局解決しなかった。

魯粛は益陽に軍を留めると、関羽と対峙し、会見を申し入れた。
それぞれの兵馬を百歩離れたところに留め、軍の指揮官だけが護身用の刀一つだけ身に着けて会見に臨んだ。
「もともと陛下がご慈悲の心をもって、土地を貴家に貸し与えられたのは、貴家が戦に敗れ、遠く身を寄せてこられて、身を立てるべき元手をお持ちでなかったからです。いま既に益州を手に入れられたのに、土地を奉還しようとのとのお気持ちもなく、三つの郡をだけ返すように求めたのに対しても、それを聞き容れようともしない」。
魯粛の言葉が終わらぬうちに、その座にあった一人が「土地と言うものは、徳ある者に帰するのであって、いつまでも同じ人物の物であるとは限らない」。
魯粛は声を荒げてその者を怒鳴りつけ、声も顔も極めて厳しかった。
関羽は刀を手に持って立ち上がると、「これはもとより国家に関することで、この者の関知するところではない」。目で合図してその者を去らせた。
劉備はこうしたことから、湘水を境とし、それ以東を呉に割譲して、双方の軍事衝突は収まった。(裴注三国志 魯粛伝)

また、

関羽 が「烏林 (赤壁) の戦役では、左将軍は自ら兵卒たちの隊伍の中にあって、寝る時も甲冑を外さず、力を一つにして魏を破ったのに、そうした働きが無視され、一塊の土壌すら与えられなかったうえに、今あなたがやってきて土地まで取り上げようとなさるのですか?」
魯粛 「そうではない。はじめて劉豫州を長阪でお会いしたとき、劉豫州の手勢は一部隊にも満たず、将来への展望は全くなく、意気も力尽き果てて、遠くに逃げ隠れたいとのみお考えであった。今日のような (事態の好転は) 事は望んでおられなかった。我が御主君は、劉豫州殿が身の落ち着け所すらない境遇を憐れまれ、土地とその他の人材を惜しみなく劉豫州殿に貸し与えられた。劉豫州殿が身を託すところを得て、困難を切り抜けられるようにと計られたのだ。
しかるに豫州殿は自分のことばかりを計り、表面を取り繕って、徳にもとり、誼に背いておられる。いま既に西方の州を手中に収めて拠り所を得られたのであるのに、さらに荊州の土地をも切り取って兼併してしまおうとなされている。こうしたことは、普通一般でも心がに咎めてようしないことだ。ましてや立派な人物たちの統率にあたる主君がやってよいことであろうか。
私は聞いている。貪欲なことをして義を蔑ろにすれば、必ず禍を招く道になるのだ、と。あなたは重要な任務を受けておられながら、道理を明らかにして自らの分を守り、正義によってこの時世を正して行こうとされることなく、貧弱な軍勢を恃んで力で事を決しようとしておられるのであるが、不正の軍には力が涌かぬという。何によって事を成し遂げられるおるもりなのか」。関羽は返答できなかった。(裴注三国志 魯粛伝がひく「呉書 (韋昭 著)」)

を託す所、土地や士人の力を愛さなかったのを矜愍し、(自らを)庇廕(庇護)できる場所を持たせて憂患を救済したのだ。

215年3月 曹操が漢中を攻め、張魯は降伏した (陽平関の戦い) すると、劉備は方針転換し、孫権と和睦した。この結果、湘水を境とし、それ以東 (江夏・長沙・桂陽) を呉に割譲して、双方の軍事衝突は収まった。


最近フィリピンでこんなニュースがあった。
新型コロナのワクチンを受けるために南シナ海を譲歩…フィリピン大統領、習近平首席に「SOS」 (2020/07/29 yahoo / 元記事 中央日報)

news.yahoo.co.jp

https://news.yahoo.co.jp/articles/c04d3b10ee89b85f66af412eabb29cf342c2dcc5

記事によると

ドゥテルテ大統領は「中国も、フィリピンも領有権を主張しているが、中国は武器 (武力) があり我々にはない。簡単に言えば、そのため中国がそこ (南シナ海) を支配している」と述べた。
また「われわれが (南シナ海を取り戻すためには) 戦争をしなければならないが、私はできない」として「他の大統領なら分からないが、私は (戦争を) できない。対応できない。それを喜んで認める」とした。

この発言を良く吟味すべきだと思う。
相手が既に実力行使、実効支配に出てきてる段階では、話し合いや言論などモノの役には立たないだろう。(実際に話し合いで荊州問題は解決していない)
荊州の場合では、それに加えて曹操の漢中侵攻が劉備にとっては凄いインパクトを持っていた。劉備は一転孫権との和議 (事実上の屈服) を余儀なくされた。

 
5. まとめ

(1)  まずは、動画な長くなってごめんなさい。
初めは30分ぐらいかなぁ・・・。と思ってたんだけど、収まらなかったね。
Youtubeで視聴する際は、長さが気になる方は再生速度を1.25倍~1.5倍に上げて、視聴下さるようにお願いします。

(2)  『荊州貸与論』は、正論とも暴論とも言えない。
まず、孫権には赤壁勝利の取り分を要求する権利があったことを確認しておきたい
荊州孫権の持ち物ではないが、だからといって劉備の持ち物とするには無理がある。
孫劉とも、ただ実効支配してただけだしな。
張翼のように、荊州が誰のものであるかを論じても意味はなく、強いて言えば曹操のモノだろう。
これをもって、もう暴論とは言えない。

しかし「荊州貸与」自体は趙翼が言う通り、呉の重臣らの捏造であっても驚かない。
なぜならば、
第一に、三国志の記述、そのものの信頼性に疑義がある。
荊州貸与説』は呉書の中にしか出てこないし、「三国志 呉書」は元々呉が編纂した
韋昭の呉書が下敷きになっている。いささか割り引く必要があるんじゃないだろうか?
荊州貸与説』は非常に蓋然性の高い説だけど、「赤壁の取り分よこせ」「劉備だけ
丸儲けかよ」っていう、呉の空気感、呉の重臣劉備への反発だって当然蓋然性は
高いと思う。
その空気感を受け、理論武装したのが『荊州貸与説』ではないだろうか?
だから『荊州貸与説』は、暴論とは言えないが、さりとて正論というには無理がある
と思うぜ。

 3. 孫劉関係のキーマンは魯粛
魯粛はリアリストで、孫権に簒奪を勧めた前科もある。

孫権魯粛に問うた。
「今、漢室は傾き、四方は乱れており、私は父兄が遺した事業を受け継ぎ、斉の桓公や晋の文公のような功績を挙げたいと願っている。君 (魯粛) は私のところに来てくれたが、どのようにして私を助けてくれるのだろうか?」
魯粛 「昔、高帝 (漢の太祖 劉邦) 義を尽くして楚の義帝に仕えようとされながらそれが出来なかったのは、項羽がそれを妨げたからです。今の曹操は昔の項羽のようで、将軍が桓公、文公のようになりたいと申されても、それは無理です。
私が推し量りますに、漢室の再興は不可能であり曹操もすぐには取り除けません。将軍にとっての最良の策は、江東を鼎峙し、天下の隙を見守ることです。こうした大方針さえ立てておけば、あれこれと思い悩むことはありません。なぜならば北方には誠に務めが多いからです。北方がそれに忙殺されている隙に乗じて黄祖を始末し、返す刀で劉表を伐ち、長江の流域を占拠したのち、帝王の号を建てて天下全土を支配するのです。
これこそが漢の高祖の事業です」
孫権は 「今は一地方にあって全力を尽くし、漢朝にお力添えしたいと願うのみだ。貴方の言われるようなことは、私の力が及びところではない」
(裴注三国志 魯粛伝)

 荊州問題について、と言うより劉備の処遇については魯粛が責任を負うてたんじゃないだろうか?
孫劉同盟の話を持ってきたのも、劉備に土地を貸し与えることを勧めたのも、話がこじれた後、会見 (単刀赴会) に赴いたのも全部魯粛
動画では、孫呉唯一にして随一の親劉備派としたが、魯粛のようなリアリストがそんな括りで論じられて良いわけではないと思う。
魯粛の言動の裏には冷徹な計算、実利があったと思う方が自然だろう。

しかし魯粛の思考 (交渉過程を含む) は呉書でしか確認できない。しかも呉書にはバイアスが掛かってるかもしれない。
魯粛との折衝において、劉備側に一貫したカウンターパートがいなかったことが惜し
まれる。

 4. 結局解決は曹操の漢中侵攻
「日本も中共に対して徹底交戦しろ」なんていうつもりはないけど、少なくともプーさんを国賓として招待するなんていう寝ぼけた融和策を執るべきでないと思う。
孫権がどうやって荊州を取り戻したか、それに学ぶべきだろうと思う。
そして、劉備のずる賢さ、したたかさにも学ぶ点は多いだろうな。