【ゆっくり偉人列伝】井上成美 ~清貧を貫いた高潔な一生~


井上成美 ~清貧を貫いた高潔な一生~
00:00 プロローグ
00:40 井上成美の出自
02:21 殺されるのが怖くてこの職務がつとまるか
10:38 もし帝国海軍の軍務局長がアドルフ・ヒトラーの『我が闘争』を読んだら
16:39 教育者 井上成美
27:02 終戦工作
35:26 戦後の井上成美 ~高潔に生きた大将~ 延長戦コーナー
42:09 ~井上成美の英語塾と教育方針~

 今回ご紹介するのは旧帝国海軍の至宝 井上成美です。 日独伊三国同盟に反対し、日米開戦 (太平洋戦争) に反対し、海軍兵学校 校長として後進の養成に尽力し、戦後は清貧の生活を貫いた井上成美。 そんな井上成美をご紹介します。

 井上成美 (いのうえ しげよし / せいび、1889年 (明治22年) 12月9日 - 1975年 (昭和50年) 12月15日) は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。日本海軍で最後に大将に昇進した二人の軍人の一人。

 井上成美は

 日独伊三国同盟に反対し、

 航空主兵論を主張・推進し、

 日米開戦に反対、

 した、海軍左派トリオとも言われた軍人です (残りは芸者好きの山本五十六と幼児退行 米内光政)。
 当動画では、上記の3点を紹介するのは当然として、個人的に一番心を打たれたのは、戦後、数々の仕事のオファーを断り、田舎に隠居を決めこみ、子供たちのために英語塾を開いて後進の育成に当たった事です。

35:26 戦後の井上成美 ~高潔に生きた大将
42:09 ~井上成美の英語塾と教育方針~

 は、是非ともご覧になって頂きたいです。

【ゆっくり人物列伝】光山文博 ~特攻に散った、朝鮮系日本人~


光山文博 ~特攻に散った、朝鮮系日本人~
00:00 本編開始
00:32 光山文博の経歴
04:50 光山文博と冨屋食堂。そして、特攻
11:46 日韓における、光山文博の受容の相違
18:14 延長戦コーナー ~とある日本人女優の 許されざる罪~


 光山文博 (朝鮮名: 卓 庚鉉 (タク・キョンヒョン)、朝鮮語: 탁경현、1920年6月5日 - 1945年5月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。
# 本人の意に反して改名された資料が見つからなかったため、
# 日本名で記します。
 

 文博が生まれたのは、日本が政府間交渉を経た上で、国際的な承認のもとに韓国を併合してから10年目にあたるの1920年。文博の誕生時、一家の暮らしは裕福な方だったとされる。しかし、祖父が事業に失敗した結果、生活は次第に困窮。そんな彼らが選んだのが、日本に「出稼ぎ」に赴き、生計を一から立て直すという道だった。文博がまだ幼少だった頃の話である。
 訪日した彼らは、京都府に定住した。当時の京都には、1万人以上もの朝鮮半島出身者が住んでいたと言われている。併合以降、朝鮮よりも賃金条件の良い日本での仕事を求めて、多くの朝鮮人が海を渡っていた。
 一家は「光山」という姓を名乗り、卓庚鉉は「光山文博」となったが、この改名も法的強制によるものではない。当時、「朝鮮名のままだと商売がやりにくい」といった理由から、多くの朝鮮人が日本名に改名した。文博の一家もこの例に当てはまると考えられる。
 文博は地元の小学校を卒業した後、立命館中学へと進んだ。文博は日本の教育を受け、日本語を使いながら育った。その後、光山は京都薬学専門学校 (現・京都薬科大学) に進学した。
 1943年9月、同校を繰り上げ卒業となった光山は、翌10月に陸軍特別操縦見習士官を志願。見事、試験に合格し、同校の第一期生となった。陸軍特別操縦見習士官とは、高等教育機関の卒業生や在校生の志願者の中から、予備役将校操縦者として登用された者のことを指す。愛称は「学鷲」。短期間で優秀な航空要員を養成することが、同制度の目的であった。
 併合後の日本は、朝鮮人に対して徴兵制を敷かなかった。しかし、少なからぬ朝鮮人が「日本人と共に戦いたい」と入隊を希望した。日本軍が朝鮮人に門戸を閉ざすことこそ「差別」「屈辱」であると彼らは主張した。
 1937年、日本の衆議院議員となっていた朝鮮出身の朴春琴が「朝鮮人志願兵制度」を請願。翌1938年、「陸軍特別志願兵令」が公布されたことにより、朝鮮人による兵卒の志願が認められるようになった。日中戦争下、朝鮮人の志願兵は右肩上がりに増え続けた。
 かかる時流の中で、文博は陸軍特別操縦見習士官への道を志願したことになる。
 
 1943年10月、鹿児島県の南部に位置する大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所に入校した文博は、この地で航空兵としての基礎的な訓練課程へと入った。
 そんな彼が、休みの日曜日になると頻繁に訪れるようになったのが近隣の「富屋食堂」であった。知覧駅からほど近い商店街に面して建つ富屋食堂は、1929年に女主人・鳥濱トメが開いた店である。知覧分教所の開校は1941年12月だが、同店は翌1942年1月以降、陸軍の指定食堂となった。うどんや蕎麦といった麺類の他、各種丼物やカレーライスが人気で、夏にはかき氷も好評だったという。
 文博はトメを実母のように慕った。普段はもの静かな照れ屋で、一人でいることの多かった文博だが、トメとはとりわけ親しくなった。
 
 文博はトメと出逢ってまだ間もない時期に、自分が朝鮮人であるという事実を告げたという。当時の日本国内において、朝鮮人を不当に蔑視する愚人がいたことは、否定し難き事実である。そんな背景を知悉していたトメは、文博に対して殊に気を使って接した。文博は食堂の裏手にある離れの座敷で過ごすことを好んだ。
 そんな文博だったが、1944年7月、栃木県宇都宮市の教育隊へと転属。トメたちとも別れることとなった。その後、光山は茨城県の鉾田基地へと移動。そんな転々とした営為の中でも、光山はしばしばトメに、
 「知覧のおばちゃん、元気ですか」
 などと綴った葉書を寄せた。

 1944年10月、光山は陸軍少尉を拝命。順調な昇進だったが、翌11月、そんな彼を思わぬ不幸が襲った。京都にいた母親が逝去したのである。死に目にも会えなかったが、父親から伝えられた母の遺言は、
 「文博はもうお国に捧げた体だから、十分にご奉公するように」
 という内容のものだった。

 やがて、父もまた同じ気持ちであることを知った光山は、特攻を志願。折から海軍が始めた特攻に、陸軍が続いた時期であった。周囲の戦友たちも、次々と特攻を志願していた。
 
 上官の一人は、文博が朝鮮出身であることから、その覚悟の有無を改めて彼に確認した。しかし、文博の決意は固かった。上官は文博の強い意志に心を動かされた。こうして文博の特別攻撃隊への配属が決定した。
 
 1945年3月、光山は一旦、三重県の明野教導飛行師団に転属。同月29日、明野教導飛行師団の主導により、14個隊もの特別攻撃隊が編成された。その内の一つである第51振武隊の隊員の中に、光山の名前はあった。隊長は荒木春雄少尉、総員12名である。
 
 第51振武隊は山口県防府飛行場を経て、知覧飛行場へと前進。文博はこうして再び知覧の地を踏むこととなった。当時の知覧はすでに「特攻基地」と化していた。
 
 文博は最初の外出日に早速、懐かしき富屋食堂を訪れた。
 
 「おばちゃーん」
 
 店の引き戸を開けて入ってきた光山の姿に、トメが驚く。
 
 「まあ、光山さんじゃないの」
 
 トメは温かく彼を迎えた。文博の相貌は以前よりも逞しくなっているように見えた。そして、トメはすぐに文博が特攻隊員であるという事実を悟った。何故なら、この時期に知覧に戻って来るのは、特攻隊員ばかりだったからである。トメの推察と不安は、文博から発せられた次の言葉によって裏付けられた。
 
 「今度は俺、特攻隊員なんだ。だから、あんまり長くいられないよ」
 
 約半年前に実母を亡くした光山にとって、トメの存在はより大きなものとして感じられたであろう。
 
 久しぶりとなるお気に入りの「離れ」に通された光山は、そこで大きく伸びをして寝転がったという。
 
 以降、光山は富屋食堂に毎日のように顔を出した。特攻隊員の外出は、せめてもの温情として、かなり自由に認められていた。

続きは動画で・・・
# ウソ 後追いでBlog書くのって大変w

【ゆっくり偉人列伝】根本博 後篇 ~義博運天、金門島に捧げた義~


根本博 後篇 ~義博運天、金門島に捧げた義~
0. 00:00 動画開始
1. 00:40 国共内戦の行方
2. 04:55 台湾への渡航
3. 09:43 蒋介石との再会
4. 11:13 湯恩伯の苦悩
5. 16:16 風は金門へ
6. 26:52 釣竿を担いでの帰国
7. 30:00 一対の花瓶と義薄運天

本編 ほぼ原稿

根本のもとに国民党立法委員の「黄節文 (こうせつぶん)」なる人物から手紙が届く。 彼女は1936年に病死していた国民党軍の要人でかつて根本と親しかった黄郛 (こうふ) の娘であった。
その手紙には「根本閣下のお力が必要なのです。助けていただけないでしょうか」と、逼迫した国民党軍の様相が痛切に滲むかのメッセージが込められていた。

そして1949年4月初旬のことだった。根本は東京多摩の自宅にいた。

そこに「国民党の密使」と名乗る李鉎源 (り・しょうげん) という台湾人が訪ねてきて、「閣下、私は傅作義将軍の依頼によってまかり越しました。どうか閣下のお力を貸していただきたい」と申し出た。

傅作義の名前を聞いて根本は驚きます。傅作義は根本がかつて交流が深かった国民党の要人です。張家口の戦いの折、万が一自分に何かがあったときには、と自身の遺書を傅作義宛にしたためていた。
敵味方別れていたものの、お互いにその人格を認めあった仲だった。
根本は「今こそ復員に力を貸してくれた蒋介石の恩義に報いるときだ」と確信した。

その頃の蒋介石率いる国民党は、1946年から本格化した第3次国共内戦において常に劣勢に立たされていた。アメリカからの支援が打ち切られた国民党に対し、ソ連が支援する中国共産党は連戦連勝。国民党の支配地域は縮小し、1949年には事実上台北への遷都を強いられていた。

ある日根本博は釣り竿を手にすると、「釣りに行って来る」と言って家を出た。
根本はまず戦前の第七代台湾総督だった明石元二郎の息子の明石元長と合流した。
明石は何とかして根本を台湾に送り届けたいと思ったが、終戦直後のこと、明石も無一文に近かった。渡航費用を捻出するために金策に駆けずり回った明石の手帳には「金、一文もなし」と書かれており、どれだけの苦労をしたことか、苦労が偲ばれる。
明石は資金提供者を求め、ようやく一艘の小さな釣り船を手配することに成功した。
1949年6月20日、根本は台湾へ向け延岡の港を出港した。
明石元長はその僅か4日後、過労のため世を去った。42歳であった。

根本は東シナ海にいた。
普通ならば琉球諸島を点々と伝いながら台湾に向かうところ、GHQに見つからないようにと最短距離で台湾を目指していた。
途中岩礁に乗り上げて船底に大穴を開けてしまうなど、苦労に苦労を重ねた台湾への航海だったが、14日掛けて遂に台湾に辿り着くことができた。

台湾への渡航には別の説もある。
根本らが乗った釣り船は、沈没直前に米海軍の警備艇に救助されたものの、沖縄駐留米軍の厳重な取調べを受けた。
根本は中国はソ連中国共産党のため共産化されつつあり、最後の反共拠点たる台湾も安全と思われない現在、自分は個人として蒋介石の反共戦略を援助する覚悟であると力説した。
沖縄の米軍は丁重に扱い、軍艦に乗せ基隆に送った。

船はボロボロ、身なり風体はまるで落ち武者か密航者かという有様。


根本らは密航者として逮捕され、基隆 (きーるん) 港近くの監獄にぶち込まれた。
通訳を介して「自分は国民党軍を助けに来た日本の軍人である」と訴えたが、誰も相手にしなかった。

しかし2週間もすると、「どうやら基隆に、日本人が流れ着いたそうだ」とか「その日本人は軍人だそうだ。名は根本博と言うそうだ」などと噂になった。
その噂を耳にしたのが国民党軍幹部の鈕先銘 (ちょうせんめい) 中将という人物で、根本が北支那方面軍司令官だった頃に交流があった人物だった。

鈕中将は「根本博」と言う名を耳にした瞬間、反射的に立ち上がった。
根本の人となりを良く知る鈕中将は「あの根本なら、あり得る」と直感し、すぐに車を走らせ基隆に向かったのだった。

鈕中将が来ると知らされた看守はあわてて、根本たちを風呂に入れ食事をさせた。
根本たちは急に待遇が変わったので「いよいよ処刑か」と覚悟を決めていた。

そこに現れた鈕中将は「根本先生!!」と駆け寄って、その手をしっかり握って離さなかった。その姿は鈕中将の感激の大きさを物語っていた。



根本たちは8月1日に台北に移動し、湯恩伯 (とうおんぱく) 将軍の歓待を受けた。
湯は根本と会うのは初めてだったが、その名前と実力のほどはかねてから聞き知っていた。
湯自身、日本に留学し、明治大学陸軍士官学校を出た知日派で、流暢な日本語で根本と語り合い、すぐに打ち解けた。

根本が来たと知らされた蒋介石は、即座に会見を求めた。
根本らが応接室に入ると、満面の笑みを浮かべた蒋介石が「好(ハオ)、好、好、老友人」と固く手を握った。
老友人とは古くからの信頼する友人という意味である。

根本の胸中に万感の思いが込み上げた。終戦時に在留邦人と日本軍将兵の帰国を助けてくれた恩人に、3年前の別れの時に「私でお役に立つことがあればいつでも馳せ参じます」と約束していた。その約束を遂に果たせたのである。

しばらく話が弾んだ後で蒋介石は真剣な面持ちでこう切り出した。
「近日中に、湯将軍が福建方面に行きます。差し支えなければ湯将軍と同行して福建方面の状況を見ていただきたい」
即座に快諾した根本に、蒋介石は何度も何度も「ありがとう、ありがとう」と繰り返していた。



その2ヶ月前国民党軍は上海を失っていた。
上海防衛を指揮していた湯将軍は上海から撤退していたのである。
上海を失った事で、国共内戦の行方はもう誰の目にも明らかに見えた。
8月5日にはアメリ国務省も「支那共産主義者の手中にある。国民党政府はすでに大衆の支持を失っている」として、公式に軍事援助打ち切りを発表していた。
要するにアメリカに棄てられたのである。

上海を失った国民党にとって、大陸への最後の足場が福建だった。
もしここも失えば一気に台湾まで存亡の危機に直面する。

福建行きを承諾した根本を、湯将軍は「顧問閣下」と呼び、食事の際には一番の上席に座らせた。根本が恐縮して辞退しても、湯はそれを許さなかったという。
湯将軍もまた、根本を極めて高く評価していたのである。

1949年8月18日、根本一行は福建に向けて出発した。根本は国民党軍の軍服を与えられ、名前は蒋介石から贈られた支那名の「林保源」を名乗りました。
厦門 (アモイ) に到着した根本は同地の地形等を調べた。


即座に「この島は守れない」と判断した。


厦門は香港と大陸の中継ぎ港で、商業地である。
しかし、大陸が中共軍の手に落ちれば如何になるだろうか?。交通が遮断されたら、港はその機能を完全に失い、住民20万の商民の生活も不可能になる。

しかも厦門には農業がなく、島内からは食料を得ることはできない。また、台湾にも厦門の20万商民を養うべき食料の余力はない。
例え敵の第一撃を押し返したとしても、長期戦になれば勝ち目はない。



さらに言えば・・・
厦門の北、西、南の三面は大陸、即ち中共軍に包囲されている。
間に横たわる海は、
西側が500mから2km程度、北側は2kmから3km、南側は6kmから8kmほどだ。
これほど近接した敵に一挙に押し渡られたら、我々には抗すべき術がない。


誠に残念ではありますが、守勢作戦としては防備の重点、即ち敵を迎え撃つのは、 金門島よりほかになし、と思います。



8/21
その夜根元は湯将軍に自分の考えを示した。
厦門は防衛するに向いていない。
共産党軍を迎え討つのは、金門島をおいてほかにありません。」

湯将軍は押し黙った。
「福建を守る」とは「厦門を死守する」ということだった。仮に金門島で戦って勝ったとしても共産党軍は厦門を落としたことを宣伝材料にするはずだ。蒋介石の怒りも買うだろう。

それを察して根本は語気を強めて言った。
「いまは台湾を守ることが国民党政府を守ることです。
そのためには戦略的に金門島を死守することが力となります。
自分の名誉ではなく、台湾を守る道筋をつけることが、軍人としての務めではありませんか!!」

この言葉に湯将軍は決断した。
厦門は放棄。金門島を死守する。」



その基本方針に則って根本は戦術を考えた。
共産党軍は海軍を持っていない。海峡を押し渡るには、近辺の漁村から小型の木造帆船 (ジャンク船) をかき集めることになるだろう。

海で迎え討てば一時的な勝利はできるだろう。
しかしそれでは敵の損害は少なく、勢いに乗った共産党軍を押しとどめることはできない。 ならば敵の大兵力をまず上陸させ、その上で一気に殲滅して国民党軍の圧倒的強さを見せつけるしかない・・・。

つまり、ただ勝つなら洋上で共産党軍を討てば容易く勝てるが、それでは台湾進攻を諦めさせることはできない。共産党軍を上陸させて、その上で殲滅してこそ台湾の安定が得られると読んでいたのだ。


そのため根本は日本陸軍が得意とする塹壕戦法を採用した。
海岸や岩陰に穴を掘り、敵を上陸させ、陸上に誘い込んで殲滅する。
まさに硫黄島や沖縄で、圧倒的な火力の米軍に対して大打撃を与えた戦法だった。


さらに共産党軍を上陸させた所でジャンク船を焼き払ってしまえば、敵は増援部隊は送り込めない。逃げ道を失った敵兵士は動揺する。ましてジャンク船では重火器は積めないので、相手は銃器を持った兵隊だけだ。こちらには戦車も野砲もある。上陸した兵を一挙に殲滅できる。


根本は共産党軍の上陸地を想定し、塹壕陣地の構築、敵船を焼き払うための油の保管など、日夜島内を巡りながら、細かな指示を与えながら廻った。


ちなみにアメリカ側は、国民党軍に旧日本軍人が参加しているのを問題視し、何度か白団の解散を蒋介石に要請したが断られている。



10月1日、毛沢東による中華人民共和国の成立宣言が全世界に向けて発信された。
勢いに乗った共産党軍は「こんな小島をとるには何の造作もない、大兵力を送り込んで残党をひねり潰すだけの事だ」と国民党軍を舐めきっていた。

10月半ば、共産党軍が金門島を攻撃するという情報が入った。
曰く、
「共産軍が船という船を徴収しており、24日夜には金門攻撃を行い、25日昼には金門で昼食をとる」とのことだった。
湯将軍は軍事顧問である根本や幕僚たちと協議を重ね、金門島のどこに部隊を配置するか、次々と決定していった。


そして10月24日夜、共産党軍は満を持して金門島への上陸作戦を開始した。
金門島の海岸は上陸した共産党軍二万の兵士で溢れかえった。

共産党軍が上陸する間、島からは一発の砲撃も銃撃なく、全員が悠々と島に上陸し、野営の準備に取りかかったそのとき、突然乗船してきたジャンク船から火の手があがった。 火の手はあっという間に広がり、油を注がれた木造のジャンク船は、見るも無惨に焼けてしまい、共産党軍の動揺が収まらないまま夜が明ける。


辺りが明るくなりかけたころ、突然島の中から砲撃音が鳴り響き渡った。
突然国民党軍の戦車21両が現れ、37ミリ砲を撃ちまくりながら、海岸にひとかたまりになっている二万の共産党軍に襲いかかった。
37ミリ砲を撃ちまくる戦車隊に、共産党軍は屍を残して敗走するしかなかった。


司令部で、湯将軍は根本の手を握って「すべて予定通りです。顧問閣下の判断と計画のおかげです」と語った。
「いささかなりとも、お役に立てた」と根本は実感した。



しかしまだ戦闘は続いていた。
前線に出れば様々な指示も出せるだろう。
根本は湯将軍の許可を得て、ジープに乗って前線に向かった。

共産党軍は金門島の西北端にある古寧頭村に立てこもり、村人を盾に必死の抵抗を続けていた。一方敗北を重ねてきた国民党軍は、初めてと言ってもよいこの勝利に酔い、血気にはやっていた。


「このままでは、巻き添えで一般の村民が大勢死ぬ。それだけは避けねばならない。
村民まで殺されてしまえば、この戦争が何のための戦争なのか、その意味が問われる。
国民党にとっても共産党との戦いの本義が失われてしまう。
一般民衆まで犠牲にする掃討作戦は採るべきではない」
根本は強い危機感を抱いた。


根本は冷静に作戦を立てて、湯将軍に献策した。
1. 古寧頭の背後に進出した戦車は、すべて後退させて、古寧頭から北方海岸への退路を開く。
2. 全戦車と砲兵を古寧頭南方地区に集め、古寧頭を南方より猛攻する。そして敵を日没後、北方海岸に撤退させる。
3. 砲艇を日没後、敵の後方海上に入れ、海岸に交代した敵に背射を加え陸上と協力して敵を殲滅する。
根本の作戦は明快だった。


しかし、湯将軍とその幕僚は衝撃を受けた。
「村民の犠牲を回避する」。
総司令部の幕僚たちの中で、村民の命を「第一」に考えた人間はいなかった。とにかく戦争に勝利する。
それだけしか頭になかったからだ。

幕僚会議は、根本の作戦を「支持する」ことで一致した。


10月26日午後3時、根本の作戦に基づく南側からの猛攻が始まった。
敵は予想通り、北側の海岸に向かって後退を始めた。そこにはあらかじめ配置しておいた砲艇が。砲艦の火砲が火を噴く。反対側からは戦車隊が迫る。共産党軍に逃げ場はなく、砂浜は阿鼻叫喚の地獄と化した。
午後10時、共産党軍の生存者は武器を捨てて降伏した。
共産軍の死者は1万とも2万とも言われるが、いまだにその数は定かではない。
古寧頭戦史館の調査によれば、上陸した共産党軍は2万、うち死者1万4千、捕虜6千と推定されている。国民党の方は死者1269名、負傷者1982名だった。


金門島において主力が殲滅されたため、
最短でわずか距離2キロしか離れていない海峡を挟んで国共激突の最前線は完全に沈着状態に入ってしまったのである。


かくしてわずか2昼夜で「金門の勝利」が確定した。勢いに乗って攻め立てた共産党軍は主力を殲滅されたため、その進撃は完全に止まった。金門島はそれから60年を経た今日も台湾領であり、中国の海峡制圧と台湾侵攻を防いでいる。



10月30日、湯将軍は幕僚たちを引き連れて、台北に凱旋した。
その中に「林保源」こと根本元日本陸軍中将がいることを知る者はいなかった。

湯一行を迎えた蒋介石は、根本の手を握って「ありがとう」と繰り返したという。
けれど根本中将は「支那撤退の際、蒋介石総統には大変な恩を受けた。自分はそのご恩をお返ししただけです」と静かに語った。


そして結局根本中将は、この功績に対する報償を一銭も受け取らず、また、日本で周囲の人達に迷惑がかかってはいけないからと、金門島での戦いに際しての根本中将の存在と活躍については、公式記録からは全て削除してくれるようにとくれぐれも頼み、台湾を後にしました。


昭和27年6月26日付朝日新聞は「募兵何も知らぬ、根本元中将二年ぶりに帰国」という見出しで、
<24年春ごろ、中国の日本人募兵に応じて台湾に密航、話題を振り撒いた元華北軍司令官、根本博元中将は数々のナゾを身に秘めながら25日朝10時5分羽田着の民航空運公司機(みんこうくううんこんす)で3年ぶりに帰国した。機からの降り立った根本中将はシワだらけの茶色ズボンにヨレヨレの白麻上衣、釣り竿を片手に「蒋総統にもしばしば会い、請われるままに軍事的に参考になることをいろいろ言い厦門作戦にも行って見た」と語った>
と報道した。


同日付読売新聞には密出国の理由について次のように語ったと報道した。
<第二次大戦中カイロ会談で日本の国体が危うかったとき蒋介石総統は何かと擁護してくれてポツダム宣言では "日本国民の希望にまかせる" ということになった。つまり日本の天皇蒋介石総統のお蔭で助かった訳だ。
このご恩返しを何とかしてやらねばと考えていたところ、蒋さんが窮地に追いこまれて総統をやめた、これは棄ててはおけない。


実はカイロ会談の際、蒋介石ルーズベルトから日本の国体について意見を求められ、天皇制存続の重要性を述べていたのである。


蒋総統はじめ向こうの要人とはしょっちゅう顔を合わせていたから軍事上のことについても相談を受ければ喜んで意見も申し上げた。噂のような募兵計画などに参画したり、前線に出て部隊の指揮を執ったりしたことは全くない。日本兵が大分残留しているが、どんな事をしているかあまリバラさん方がよいだろう・・・」
とはぐらかしている。


「漂流して台湾に渡ったのだが、顔見知りの友人から歓迎されてねぇ。ろくなこともしてないのに、歓迎ばかりしてもらい本当に悪いことをしてしまったよ」
根本は語り、

最後の一句は「白団」の存在を示唆している。



台北の中心に立つ巨大な中正紀年堂には、蒋介石の巨大な像とともに、彼の執務室を再現した部屋がある。その中に高さ40センチほどの花瓶が置かれている。他の壺や置物は一対となって左右に分かれているのに、この花瓶は一つしかない。

この花瓶は1947年に2個1セットとして3セット作られ、イギリスのエリザベス女王に1セット、日本の皇室に1セット贈られた。残る1セットの一つを蒋介石は自分の手元に置き、もう一つをこう言って根本に与えたのである。

「これは、あなたと私がいつも一緒にいるということです。常にそばにいて、お互いがお互いを忘れないという意味で、この花瓶を贈ります。」

それは命をかけて蒋介石の恩義に報いようとした根本に対する蒋総統の真心を表したものだった。
花瓶には釣り竿を持った男の姿があしらわれていた。
釣竿を持った男は名を姜子牙という。つまり太公望だ。

蒋介石が「貴方こそが私にとっての太公望です」と言っているかのようだ』などと言ったら言い過ぎだろうか。


その後、遺族の要望で景徳鎮の花瓶は近年台湾に戻ったそうだが、「借りは返したい」根本としては、

花瓶は根本氏の長女、富田のりさんが家宝として大切に保管していた。
富田さんは
「日台間にこんな友情があったことを知って欲しい。
頂いたものを返すのは失礼なので、永遠にお貸しします」
と、帰郷させることを決断した。
草葉の陰で「それでいい」と頷いていることだろう。



湯恩伯は蒋介石直系の勇将として戦争中よく名を知られた人物である。
1899年生まれで、日本の陸士卒業生で。根本将軍より10歳若かった。両人の間は肝胆相照 (かんたんあいてらす) らす友情で結ばれ、根本将軍の意見は湯恩伯を通じて重視され、湯思伯は根本将軍に師事していた。
1954年湯恩伯は胃癌治療のため特に希望して来日し東京慶応病院に入院した。この報を聞いた根本将軍は北海道から駈けつけ、病床を離れず6月末逝去に至るまで手厚い看護を続けた。


湯恩伯は根本将軍
帰国に際し次の送別の辞を贈り感謝の意を表している

義薄雲天
民国溝八年正我国大局慌抗之秋、根本先生以中日唇歯相向、更感於総統蒋公之剛正恢宏、毅然来赴、与恩伯朝夕相衆、出入金慶舟山各島、危難生死置之度外、此程崇高之義侠精神、実可天地間之久長、当敬
根本先生帰国之行、特書数字以留記念並誌景仰根本先生雅存
湯恩伯



蒋介石総統の恩義に報いた日本将校団「白団」物語 1~15 (PDF)
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15
※ 15に「白団」外篇 根本将軍戦後の足跡がある。

台湾に対する意識調査 2019年版 (一般社団法人中央調査社)

日本人の台湾に対する意識調査を行った。その結果、7割以上の人が台湾に親しみを感じ、台日関係は良好であると答え、6割以上の人が台湾は信頼できると答えた。
全体的には、今年の意識調査の結果は過去3年間の調査結果の傾向を引き継いでおり、日本人の多くが台湾に対し良好な印象を持っており、現在の台日関係の発展を評価するものとなった。

  2018年度対日世論調査 (日本台湾交流協会)

台湾人の日本に対する意識調査を行った結果、7割の人が日本に親しみを感じている。

 

 

 

【ゆっくり偉人列伝】根本博 前篇 ~居留民4万人、救出作戦~


根本博には2つの大きな功績がある。

一つ目は大東亜戦争において日本降伏時、駐蒙軍司令官として軍命に背いてソ連と戦いを継続し、日本人居留民の命を守り抜き、無事日本に帰還させたこと。

二つ目は、恩義ある蒋介石の要請に応え、法を犯して米国占領下の日本を離れ台湾へ渡航。軍事顧問として中国名「林保源」の名のもとで、金門島の戦いに貢献。中国共産党人民解放軍を撃破。台湾の独立を確定させ、今に至る東アジアの国際秩序の基礎をつくることに貢献したことである。


根本博 (1891 - 1966年)、まずは根本の略歴を見てみたい。

根本博は1891年 (明治24年) 生まれで福島県出身。
陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校を卒業 (23期)。席次は509人中13番。
1922年 (大正11年) 陸軍大学校卒業 (34期)。席次は60人中9番。
酒好きで豪快な人柄だったと言われている。

陸大卒業後、陸軍中央において主に支那畑を歩む。
南京領事館附駐在武官として南京に駐在していた 1927年3月南京事件に遭遇、領事館を襲撃してきた北伐軍暴兵に素手で立ち向かったものの銃剣で刺され、更に二階から飛び降りて脱出を図った際に重傷を負った。
自分が死ぬことで、幣原外交の軟弱さを変えようとしたと後に語っている。


帰国後、1928年6月に起きた満州某重大事件を皮切りに、満蒙問題などの解決のために国策を研究する目的で、石原莞爾、鈴木貞一、村上啓作、武藤章ら陸士21期生から27期生の少壮将校を中心に、同年11月に9名で結成された無名会 (別名・木曜会) に参画する。続いて翌年5月には、軍の改革と人事刷新、統帥の国務からの分離、合法的な国家総動員体制の確立等を目指し、永田鉄山、岡村寧次、小畑敏四郎、板垣征四郎土肥原賢二東條英機山下奉文ら陸士15期から18期生を中心に結成された、二葉会に吸収される形で成立した一夕会に加わった。

1930年 (昭和5年) 8月、中佐として参謀本部支那班長となる。この頃支那班員となったばかりの今井武夫大尉は、当時の根本班長の思い出を戦後回顧している。1931年 (昭和6年) 12月、犬養毅内閣の陸相となった荒木貞夫中将は、寡黙な根本中佐を「昼行灯」と称して、忠臣蔵大石良雄に擬していたという。

1930年9月、国家改造を掲げる結社桜会にも参加するようになり、
翌年には陸軍のクーデター事件である三月事件に連座するも、中心人物である橋本欣五郎ら急進派の行動に危惧や不信感を抱き、また一夕会の東條らの説得もあり次第に桜会から距離を置くようになる。
十月事件にも半ば連座する形になったものの、幾人かの同士達と、当時の参謀本部作戦課長今村均大佐に自ら計画を漏洩、未遂に終わらせる事に寄与、一時期の拘束で処分は済んだ。

1935年 (昭和10年) 8月12日に起きた相沢事件時には、事情が分からずに、事件を起こした直後に連行される相沢三郎に駆け寄り、握手を交わしたとされ、統制派の将校であるにも関わらず、誤解を受ける行動を起こした事を、後に悔やんでいる。

1936年 (昭和11年) 2月26日?2月29日における二・二六事件の際は、陸軍省新聞班長として部下に、有名な「兵に告ぐ、勅命が発せられたのである。既に天皇陛下の御命令が発せられたのである。お前達は上官の命令が正しいものと信じて・・・」の戒厳司令部発表を、反乱軍の占拠地帯に向かって拡声器を通じて放送させ、反乱軍を動揺させて切り崩し工作を図った。
根本は決起将校らが陸軍大臣に宛てた「陸軍大臣要望事項」の中で、軍権を私したる中心人物として、武藤章中佐、片倉衷少佐と共に即時罷免を求められている。
また同事件時、決起将校らが2月26日の未明から、陸軍省において根本を待ち伏せていたが、昨晩から深酒をして寝過ごした為に命拾いした。

二・二六事件後の陸軍再編により原隊の連隊長に就任、日中戦争後は専門である支那畑に復帰、終戦に至るまで中国の現地司令部における参謀長や司令官を長らく務めた。


張家口の根本博
根本は昭和19年冬、関東軍からモンゴルの駐蒙軍司令官として張家口の司令部に着任した。
昭和20年1月の時点で、駐蒙軍は混成二個師団で日本全体の面積に匹敵する地区を警備し、かつ国民党の傅作義 (ふ・さくぎ) と八路軍 (中国共産党軍) に対抗せねばならなかった。

ちなみに国民党の傅作義ですが、彼は「見危授命 (けんきじゅめい)」(孔子の言葉)、つまり人の危うきを見て自分の命を投げ出すという言葉をモットーとしていました。

日中戦争以前の5年間、彼は第35軍長兼、綏遠 (すいえん) 省政府主席として善政を敷き、根本とも親交がありました。

根本はまた蒋介石とも昵懇 (じっこん) の仲でもありました。
若い時より「根本は支那人」と陰口を叩かれるほどの親中派で、傅作義の思想にも傾倒していたようです。
根本のこのような一面が、のちの台湾独立運動の援助へと続いていきます。

さて満蒙の状況だが昭和20年5月のドイツ降伏後、ソ連軍の動向は極めて険悪化しつつあった。
昭和20年6月、大本営は戦争指導会議における情勢判断において、ソ連の国家戦略、極東ソ連軍の状況、輸送能力などからみて「ソ連の攻勢開始は、8月か遅くとも9月上旬の公算大」と結論づけた。
一方現地の関東軍は、「独ソ戦で被った損害補填のため早くとも9月以降あるいは来年に持ち越す」こともあり得ると楽観視していた。
関東軍総司令部は、作戦準備が整わず防御不可能という自軍の作戦能力にとって都合のよい情報だけを取捨選択して判断をしたのである。

現に8月2日、関東軍報道部長は新京のラジオ放送で次のように述べている。

関東軍は盤石の安きにある。
邦人、特に国境開拓団の諸君は安んじて、生業に励むがよろしい」

こうした放送もあって、ソ連軍が侵攻してきた場合、放棄すると決められている土地に住む人々は、何かあれば関東軍が守ってくれるものと信じていた。

しかし敵情報の探索に努めていた最前線の部隊では、宣戦布告の数日前からソ連軍の作戦準備活動の活発化を察知しており、関東軍総司令部へ上申するも採用されず、独自の作戦準備行動をとった部隊もあった。
根本もドイツが降伏したら、ソ連は必ず対日戦に参加すると推測していた。


昭和20年8月9日早朝、ソ連・外蒙連合軍は日ソ中立条約を一方的に破棄し国境を突破し内蒙古に雪崩れ込んだ。主力はソ連の機甲部隊と外蒙騎兵隊の混成部隊で、兵員4万2000名、戦車、装甲車合わせて約4百両、迫撃砲等約6百門だった。
これらの地域に住んでいた邦人は、内蒙古の最南部にある張家口に逃げ込んできていた。

ソ連軍の機甲部隊は次々に要衝を占領、14日には日本軍陣地のある張家口の北西44kmまで迫っていたが、急進撃のため燃料補給が間に合わず、燃料不足で立ち往生した。

張家口に陣取る駐蒙軍2500名に課せられた使命は、張家口にいた在留邦人4万人の撤退であり、ソ連軍を阻止し、邦人の脱出を援護するということにあった。

駐蒙軍司令官 根本博中将は張家口の宿舎で眠れぬ夜を過ごしていた。

関東軍司令部は、ソ連軍が侵攻してきても、一般邦人にとっては無武装・無抵抗が最高の手段と考えていた。また一般日本人の間にも「ソ連軍は丸腰の日本人を絶対殺傷しない」という噂が流布していた。

しかしソ連軍は、在留邦人に対して、婦女子は手当たり次第に暴行したり、着ている衣服や腕時計まで掠奪している。拒否するものは容赦なく射殺するなど、暴虐の限りを尽くしているらしい。

根本は張家口に逃げ込んできた避難民から、ソ連軍に関するそのような噂を聞いてからだ。迫りつつあるソ連軍に対して、駐蒙軍2500名は迫撃砲、速射砲などが数門づつあるのみだった。陣地とは言っても、小高い丘を利用して所々にコンクリート製の機関銃座を設け、その前面には幅6m、深さ4mほどの対戦車壕があるだけだった。
戦力的には抗し得るはずもない。

昭和20年8月15日、根本は張家口放送局にいた。
根本はじめ軍人たちにはこの日に何があるかを知った上で放送局にいた。

陛下の玉音放送が終わった直後、マイクの前に立った根本は、エ、エンと、癖になっている咳払いをひとつすると、深く域を吸い込んでこう語り始めた。

「日本は戦争に敗れ、降伏いたしました。皆さんは今後のことを心配していると思います。しかし、我が部下将兵たちは、皆健在であります」
それは口調こそ穏やかなものの、断固たる決意が漲る声だった。

「わが軍は、私の命令がない限り、勝手に武器を捨てたり、任務を放棄したりするものは一人もおりません。心を安んじて下さい。疆民 (きょうみん) および邦人は、決して心配したり騒いだりする必要はありません。」
噛んで含めるような言い方だった。そして、根本はこう続けた。

※ 疆民

「私は上司の命令と国際法規によって行動します。疆民、邦人及び我が部下等の生命は、私が身命を賭して守り抜く覚悟です。皆さんには軍の指導を信頼し、その指示に従って行動されるよう、強く切望するものであります」

大本営の「即時停戦、武装解除受託」命令に従えば、ソ連軍は張家口に殺到し、引き揚げ直前の邦人は大混乱に陥り、市街は地獄絵図となる。
ソ連軍の本質を見抜いていた根本は、ここで投降すれば一般邦人をはじめとした日本軍は、ソ連軍に皆殺しにされるであろうことは容易に予測がついていた。
根本は末抗戦を決意、支那派遣軍総司令部に打電した。「八路軍及び外蒙ソ軍侵入は敢然これを阻止する決意なるも、もし、その決心が国家の大方針に反するならば、直ちに本職を免職せられたく、至急何分のご指示を待つ」という職を賭しての抗戦の決意を報告した。
根本は部下の将兵を集合させ、こう命令しました。
「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ連軍を断乎撃滅すべし。
これに対する責任は、司令官たるこの根本が一切を負う」

ポツダム宣言を受諾し、本国から武装解除命令が出ているにも関わらず、これを拒否して戦闘を行うのは、軍令違反に当たるが、その責任は全て、根本司令官個人が引き受けることを、部下に改めて明示した。

この根本司令官の決意はいち早く丸一陣地を死守する響兵団の将兵に伝わり、士気は一気に高まった。根本司令官は張家口を満州の二の舞にはさせじと立ち上がった。

司令官の断固たる決意に、駐蒙軍の将兵も闘志を燃やし、攻め込んできたソ連軍と激戦を展開した。

ソ連軍は総勢4万名以上。
一方、張家口の街の入り口となる丸一陣地を守る兵はわずか2500名。

8月15日、16日のソ連軍の攻撃は特に激しかったが、駐蒙軍の頑強な抵抗によって、戦車15台の残骸を残して退却していった。

8月18日、守備隊の動揺を誘うべく、ソ連軍航空機によりビラが散布されます。
「日本は既に無条件降伏したのだ。関東軍も既に降伏した。だが、張家口の日本軍司令官だけが戦闘を続けている。
我々は、この指揮官を戦争犯罪人として死刑に処する。」

また、ソ連軍軍使がビラと同じ内容を伝えるべく、日本軍陣地までやってきて降伏勧告を勧める。
ソ連軍の常套手段です。圧倒的戦力を前に、議論は戦いの継続と降伏にわかれます。

しかし、根本はここで降伏すれば満州の悲劇が繰り返されることを理解しています。根本は、部下に対してこう言います。

ソ連が私を戦犯にすることは容易いことではないか。しかし、私が戦死してしまえばそれもできまい。私が丸一陣地に赴き軍使を追い返してみせよう。それも叶わぬなら死ぬまでだ。」
この勢いに再び部下たちは圧倒され覚悟を新たなものとします。

駐蒙軍の目的はただ一つ、侵入してくるソ連軍と戦って、時間を稼いでいる間に4万人の居留民が安全に引き上げる時間を作ることだった。

ソ連軍は、途中幾度と降伏勧告を試みるも駐蒙軍は抗戦し続け、将兵は必死にソ連軍の攻撃を食い止めながら、すさまじい白兵戦をも乗り越えた。8月19日から始まったソ連軍との激闘はおよそ三日三晩続いたものの、駐蒙軍の必死の反撃の前にソ連軍は戦意を喪失し、一時撤退したため、日本軍は張家口を守り抜いた。

一方8月20日夕刻から始まった張家口からの撤収は、時に八路軍 (中国共産党軍の前身) からの攻撃にも必死に耐え、居留民4万人を乗せた列車と線路を守り抜いた。
これには根本は懇意でもあった中国国民党軍の傅作義と連絡をとりあい。撤退について国民党軍の協力を取り付けていた事情もあった。

8月21日の午前中には根本の元に「日本人居留民4万人は北京・天津方面へ脱出した」との報告がなされました。根本率いる駐蒙軍がソ連軍と激しく戦っている間に、4万人の居留民は、こうして無事に引き揚げる事ができたのだった。
こうして根本司令官の駐蒙軍は在留邦人の保護に成功し、駐蒙軍はひそかに撤退を開始。将兵は、途中、生のトウモロコシなどを食べながら、歩いて北京に向かった。
そして最後の隊が27日に万里の長城へ帰着した。

一連の戦闘で同旅団は約80名の犠牲者を出すも4万人近い邦人は全員無事に引き揚げを完了した。
根本中将の指揮下にあった、独立混成第二旅団に所属していた渡邊曹長は以下のように述べている。

「軍隊とは国民を守るのが原点です。私は、あの時の根本閣下の命令は当然だったと思います。私たちの戦いは終戦になって以後のことなので、客観的にいえば "反乱"ですよ。
でも、戦友は犬死ではなかった。そのおかげで、4万人が引き揚げて無事日本に帰って来られたのですから、結果的に4万の居留民を助けられたことは、私たちの誇りです。

隣の満州関東軍は、武装解除に応じて、邦人があんなひどい目に遭ったわけですから、同じ将軍でも、わが根本閣下は違う、と私たちは今も誇りに思っています」

その後根本は北京に留まり、北支那方面の最高責任者として在留邦人および35万将兵の祖国帰還の指揮をとった。

その年1945年 (昭和20年) 12月18日、根本は中華民国主席・蒋介石の求めに応じて面会した。
蒋介石と最初に会ったのは、陸軍参謀本部支那研究員として南京に駐在していた1926 年 (大正15)、南京においてであった。二人は共に「東亜の平和のためには、日中が手をつないでいかなければならない」との理想を同じくしていた。

蒋介石が北京に乗り込んできて、根本中将に会いたいと使者をよこした時、根本中将には蒋介石に対して、言葉では尽くせない感謝の気持ちがあった。

一つには、在留邦人、将兵の帰国は、国民党軍の庇護と協力によって無事に行われているのであり、それは満洲を略奪し、数十万と言われる日本人捕虜をシベリアに連れ去ったソ連とは対照的であった。

根本は、椅子が二脚しかない書斎に入っていった。蒋介石は根本の手をとり、椅子に座らせた。周囲には、国府軍の高官たちが立ったままでいる。

蒋介石は、にっこりと微笑みながら言った。

「今でも私は東亜の平和は日本と手を握っていく以外にないと思うんだよ。今まで日本は少々、思い上がっていたのではないだろうか。しかし、今度はこれで私たちと日本は対等に手を組めるだろう。あなたは至急、帰国して、日本再建のために努力をして欲しい。」

 その態度には、戦勝国代表の驕りは少しも感じられなかった。この時点で、国民党軍と共産軍の衝突が中国各地で始まっており、蒋介石には、早く日本が復興して、自分たちを支援して欲しい、という気持ちがあったのだろう。

「東亜の平和のため、そして閣下のために、私でお役に立つことがあればいつでも馳せ参じます」と、根本中将は約束した。

 在留邦人と将兵の帰国は約1年で無事完了し、根本中将は1946 (昭和21) 年8月に最後の船で帰国の途についた。

<書籍>
・ この命、義に捧ぐ
~台湾を救った陸軍中将 根本博の奇跡~
角川文庫 門田隆将 著

書評
1 2 3 4 5

<参考にしたサイト>
根本博 (Wikipedia)
岡村寧次 (Wikipedia)
明石元長 (Wikipedia)
蒋介石 (Wikipedia)
傅作義 (Wikipedia)

教科書に載らない歴史上の人物 16 根本博 その1~3 (羅針塾)
金門島の戦いで台湾を死守した日本人がいた──根本博と「白団」の活躍 (SBCr online)
台湾を救った日本人 根本博 (福岡パンフレット制作.com)
蒋介石総統の恩義に報いた日本将校団「白団」物語 1~15 (PDF)
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15
※ 15に「白団」外篇 根本将軍戦後の足跡がある。
・ ひと息コラム『巨龍のあくび』 第53回: 金門包丁の切れ味 (PDF)
・ 根本博【前・後編】(太平洋戦争史と心霊世界)
・ 終戦時邦人四万人を救った “響兵団” (一燈照隅)
・ 張家口の根本博 ? 本当に大事なものを守るためには時に反逆者になる覚悟が必要であることを体現した男 (大山俊輔ブログ)
根本博 (mixi)
・ 

<読んだだけ>
・ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡 (戦車兵のブログ)
・ 台湾を中共から守った男 根本博中将 (誇りが育つ日本の歴史)
・ 

【ゆっくり解説外伝】Huawei構築のデータセンターに重大な欠陥。故意に問題放置?



中国支援のパプア情報通信施設に欠陥…豪紙、ファーウェイが故意に問題放置? (読売新聞 2020/08/13)

 【ジャカルタ = 一言剛之】豪フィナンシャル・レビュー紙は12日、中国の支援でパプアニューギニアに設置された情報通信施設に保安上の重大な欠陥が見つかり、整備費用5300万ドル (約57億円) の返済をパプアニューギニア政府が拒否する意向だと報じた。施設の整備は中国の通信機器大手「華為技術 (ファーウェイ)」が受注した。

 報道によると、情報通信施設は2018年に首都ポートモレスビーで利用が始まった。しかし、その後、外部からシステムに侵入できる不備が見つかったため、パプアニューギニア政府は現在、利用を制限している。サイバー攻撃の有無や具体的な被害は明らかになっていない。

 豪政府の支援で行われた施設の調査では、システム設計に不備があったほか、旧式の暗号化技術が用いられていたことが判明した。調査報告書によると、ファーウェイが故意にセキュリティー面の問題を残した可能性もあるという。フィナンシャル・レビュー紙は、中国側にスパイ活動を行う狙いがあった疑いも指摘している。

 ファーウェイを巡っては、情報流出などの懸念が指摘されており、次世代通信規格「5G」の導入計画から排除する動きが日米英豪などで広がっている。 

 中国の影響力にらみ 豪とNZ、太平洋諸国へ援助アピール (Sankei Biz)
パプアニューギニア、華為建設のデータセンターに「深刻な欠陥」日本などが当初反対 (大紀天)
Huawei構築のパプアニューギニアDCに重大な欠陥、スパイ行為が容易に (Data Center Cafe)

朝日新聞はWEB記事なし (だと思う)
毎日新聞はWEB記事なし (だと思う)
産経新聞はWEB記事なし (だと思う)。
日本経済新聞はWEB記事なし (だと思う)
※ 2020/08/14現在

<パプアニューギニア中共の関係>
2018/06/03 中国によるパプアニューギニアへの援助資金が、パプアニューギニア元首 相への賄賂 (100 万 USドル) として使用 (Sydney Morning Herald)
2018/06/-- 豪州,パプア、ソロモン諸島シドニーを結ぶ海底ケーブル敷設事業からファーウェイを排除。
しかしファーウェイは、海底ケーブル部門を別の中国企業に売却。
2018/06/14 ソロモン首相が、訪問先のオーストラリアにおいて、中国ではなく台湾と 国交を結ぶ太平洋島嶼国は圧力を受けていると発言 (RNZ 英語)
2018/11/16 パプアの通信インフラ敷設 中国ファーウェイに決定 (日本経済新聞)
2019/5/30 パプアニューギニア首相 ピーター・オニールからジェームズ・マラペに交代
2019/09-- 台湾、ソロモン諸島キリバスと断交
2019/10/07 オーストラリア、日本、ニュージーランド、パプアニューギニア、米国の政府が関与する多国間電力供給プロジェクトにより、パプアニューギニアの生活を改善 (FORUM)
2020/05/14 パプア「中国企業の金鉱採掘権」延長却下の訳 (東洋経済新聞)

 

 【食糧不安】習近平主席、残飯残さないよう法律制定「コメ1粒ごとに農夫の苦労がにじんでいるのがわからないのか」 (Share News Japan 2020/08/13)

 

【ゆっくり解説外伝】TikTok情報収集!! 米誌 WSJが報じる。


TikTok、無断で利用者情報収集か 米紙報道 (産経新聞 2020/08/12)

 米紙ウォールストリート・ジャーナル (WSJ) 電子版は11日、中国系動画投稿アプリ「TikTok (ティックトック)」が、米グーグルの基本ソフト (OS) 搭載のスマートフォンの識別番号を収集し、利用者の情報を追跡できるようにしていたと報じた。

 利用者に無断で収集していたとみられ、グーグルの規約に違反した可能性があるとしている。ティックトックは昨年11月、識別番号の収集を停止した。

 ティックトックの広報担当者は声明で、個人情報を守るために定期的にアプリを更新しており、「最新のものは識別番号を収集していない」としている。

 識別番号は「MACアドレス」と呼ばれ、端末ごとに付けられている。アプリ開発業者は通常、広告の配信先を絞り込むために使用しているが、プライバシー問題を懸念する見方もある。(共同)

www.sankei.com

TikTok、利用者情報追跡していた グーグル規約に違反か (WSJ 2020/08/12)

TikTok  安全性への懸念 (Wikipedia)
iOS 14でバッチリ可視化、TikTokがテキスト入力中に、クリップボードを逐一読み取る様子 (Internet Watch)
→ 関連 例のTikTokのキーロガー疑惑について解説するよ (はてな匿名ダイアリー)

神奈川、TikTok投稿動画を非公開に (産経新聞 2020/08/12)
「情報流出に不安の声」TikTokアカウント停止 埼玉県が理由説明 (毎日新聞 2020/08/12)
→ 関連 埼玉県とByteDance株式会社との埼玉の広報業務に関する協定締結式 (埼玉県 2020/06/01)
 ByteDance株式会社はTikTokの運営会社です。

中国、日本に警告「TikTok禁止は日中関係に大きな影響与える」- 中国メディア (Record China)


禁止される?中国企業アプリ一覧。中国製アプリは日本で利用禁止になるの? (ごんたブログ)

1万4112本の中国製スマホアプリに新種ウイルス Moplus9つの危険動作とは (得する情報.com)

トレンドマイクロ社はバイドゥに対し脆弱性を指摘し、問題になっているプログラムはすでに動作してないことを確認しています。

しかし、すでに出回っているアンドロイドアプリは、セキュリティー問題があるままGoogleストアで公開されているという事です。

今後は、Googleストア側がどのように対策するのかにかかっているようです。

→ 関連 脆弱性を抱えるソフトウェア開発キット「Moplus」、実はバックドア機能の実装が判明 (トレドマイクロ セキュリティブログ)

【注意!】これは即アンインストール!Androidの危険アプリ一覧! (スマホおすすめ情報館)

食い物ジョーク

日本 「すまん。トイレ逝ってくる」
米露韓中北「いってらー」

中国「(ヒソヒソ)日本を本気で怒らせてみたいが、難しい。潜水艦で領海に入っても怒らない」
韓国「独島を占拠しても怒らない」
ロシア「北方領土を返さなくても怒らない」
北朝鮮 「なら、おれが核ミサイルをぶち込んでみようか」
米国「よせ、それはもうおれがやってみた」

米露韓中北「一体どうすれば…(途方にくれる)」

中・韓「俺らは日本人を怒らせようと犯罪者を大量に輸出してみたんだが、逆にビザ免除に動いてくれてるし‥」
北・露「ふーむ…」

米国「・・・あ、でも、牛肉に脊柱にいれたら、日本国民が激怒したな‥」
露韓中北 「それは、おまい怒るよ」

中国「野菜に毒(農薬?)盛ったら怒ったぞ?」
韓国「生ゴミ餃子も怒った」
米国「寄生虫の卵を食い物に入れて輸出しあってる奴はちょっと黙れ」

ロシア「あいつ、食い物以外じゃ怒らねーんじゃねーの?」

米韓中北 「あ!」

色々と亜種があるんだけど、これしか見つけられなかった><



以下 ボツ

中国、日本の懸念に「干渉許さない」 香港民主活動家ら逮捕 (産経新聞 2020/12/11)

香港の民主活動家、周庭 (アグネス・チョウ) 氏らの逮捕に日本の菅義偉 官房長官が懸念を示したことについて「香港については中国の内政であり、いかなる外部勢力の干渉も許さない」と反発した。


周庭氏ら逮捕に日本“懸念”、中国政府「内政干渉」と反発 (Yahoo 2020/08/12)

 「私たちは日本側に現実を見極め立ち位置を修正し、いかなる形による中国への内政干渉も停止するよう促す」(中国外務省 趙立堅報道官)

 

【ゆっくり偉人列伝】升田幸三 ~ GHQから将棋界を救った男 ~


升田幸三 ~ GHQから将棋界を救った男 ~
00:00 タイトル


参考サイト

升田幸三 (Wikipedia)

「観る将」を魅了した昭和のスター棋士・升田幸三をご存知ですか【升田幸三特集 第1~3回】 (日本将棋連盟)

NHK 人×物×禄 升田幸三 (NHKアーカイブス)

<動画作成時に参照>
升田幸三のエピソード!将棋でGHQを詰んだ棋士 (all about)

戦前小話: 升田幸三 (桂・長岡天神道場)

第18回 X氏ヒストリー 「大棋士・升田幸三 」(GHQ Club)

【筆洗】: 将棋の羽生善治さんが「棋は対話なり」について分かりやすく説明している。(路地裏のバーのカウンターから見える「偽政者」たちに荒廃させられた空疎で虚飾の社会。漂流する日本。大丈夫かこの国は?)

「棋は対話なり」について羽生善治の解説
以下引用

駒を動かしながら心の中で相手とこんな会話をしているという

「ここまで取らせてください」「わかりました。そこまではいいでしょう」「じゃあ、これもいいですか」「いや、それはちょっとよくばりでしょう。こちらも戦いますよ」。

こうした対話を重ね、押したり引いたりしながら、最終的に自分の有利な展開へと導いていくものなのだろう

東京新聞社 2018年09月21日


<見ただけ>
「名人に香車を引いて勝つ」「たどり来て未だ山麓」「新手一生」升田幸三元名人の名言と戦後の将棋史 (yahoo)

将棋を世界に 過去編 (7) 升田幸三の伝説 (中日新聞)

記録係の升田幸三初段 (15歳) 高段者の対局を「トロいヘボ将棋」と感じ早く終わらせようと消費時間水増し (yahoo)

升田幸三の名言・格言 (癒しツアー)

第15回 荊州貸与問題 (廿二史箚記より) Part1

 


プーさん (made in Chaina) と迷惑な仲間達の傍若無人ぶりが止まりませんね。
尖閣海域への海警の侵入は104日連続だし 

www.sankei.com

(産経新聞 2020/07/26 https://www.sankei.com/politics/news/200722/plt2007220003-n1.html)

中国外務省報道官の物言いも、神経を逆なでするモノでした。

www.youtube.com

(abema News 2020/07/22 https://www.youtube.com/watch?v=PDH_5x_uG20)

www.nikkei.com

(日本経済新聞 2020/07/22 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61874870S0A720C2FF8000/)

しかし、まぁ本題はそっちではなく、孫呉が主張した荊州貸与問題が動画の主題です。
尖閣問題同様、こっちも無理筋なのですが、結構まかり通ってしまいましたw。
# 裴注三国志の呉書は、私の記憶が確かなら、三国志 (陳寿著) の呉書は、韋昭著の呉書の影響を強く受けているそうなので、韋昭の記載がそのまま残ったのかもしれませんが・・・

荊州貸与問題とは何か?
平たく言えば「劉備は領地を持たぬただの傭兵隊長だから、呉が荊州の土地を貸してややるよ。益州分捕ったら荊州の土地は返してね」っていう、まぁ例の話です。

荊州貸与問題の論拠
清の史学者 張翼は、著書 廿二史箚記の中で、孫呉が主張した荊州貸与説は捏造に過ぎないと論じた。(廿二史箚記wikiから読めます。97. 借荊州之非)
その根拠として

  1. 赤壁にて曹操を撃破したのち、周瑜が南郡太守となり、長江南岸の地を分割して劉備に与えた。そして劉表の官吏兵士のうち曹操軍から逃げ帰った者たちは、みな劉備に身を投じてきた。劉備は与えられた土地では供給するには不足していたため、孫権から荊州の数郡を借用した。(先主伝が引く「江表伝」)
    実際は赤壁の後、周瑜劉備にあてがったのは公安 (油江口) だけで、長江南岸の地というと、ちょっと語弊があるような気がする。
  2. 劉備が京に参詣して孫権にまみえ、荊州を都督したいと求めたとき、魯粛は彼に貸してやって共同して曹操に対抗せよと孫権に勧めた。(魯粛伝)
  3. 劉備益州攻略後、魯粛関羽に会って荊州の返還を求め、関羽に告げた。「我が国が卿の家に土地をお貸ししたのは、卿の家の軍勢が敗れて遠方から来られ、元手を失ったものと思ったからである」。(魯粛伝)
    215年の単刀赴会のことですね
  4. 孫権もまた、魯粛には二つの長所があるが、ただ玄徳へ土地を貸すよう吾に勧めたのは短所の一つである、と論じた。(呂蒙伝)

の4点を挙げた。

この4点に共通していることは、

  • 全部呉の書物からの引用であること
  • 荊州貸与は魯粛が積極的に推進していた

ってこと。
魯粛は呉きっての親劉備派だから、「荊州貸与」を推進したと思われる。


趙翼は、
荊州貸与説の出所は、いずれも呉の人々の記述である。
そもそも「貸す」というのは、自分がもともと所有している物を他人に貸し与えることである。荊州はもともと劉表の土地であって、孫氏の本来の持ち物ではないのだ。
曹操が南下した時点では、孫氏の江東六郡は自分たちを守りきれないことを恐れるのが精一杯、諸将はみな曹操を迎え入れるよう孫権に勧めたほどであったが、孫権はただ一人それを希望しなかった。ちょうど劉備諸葛亮を派遣して友好関係を結ばせてきたので、孫権はようやく劉備 (の力) を借りて一緒に曹操を防ごうと思うようになったのだ。
このときはただ曹操に対抗することだけが望みであって、まだ荊州を獲得しようとまでは思っていなかったのである」。
と論じて、孫呉荊州貸与説を否定している。

赤壁における劉備の貢献
次に張翼は、孫権が如何に劉備を頼っていたか、劉備がどれだけ大きな役割を果たしたかを列挙する。

  1.  諸葛亮孫権を説得したとき、孫権はすぐさま「劉豫州 (劉備のこと) でなければ曹操に対抗できる者はない」と言い、周瑜・程普らを派遣して諸葛亮とともに劉備に参詣させ、力を合わせて曹操を防いだ。(諸葛亮伝)
    これは (孫権が) 劉備を対曹操の主役に立て、自分は脇役になろうとしたということであろう。
  2.  諸葛亮はまた、「将軍 (孫権) がもし豫州殿 (劉備) と心を一つにして曹操を破ることができたなら、荊・呉の勢力は強くなり、そして鼎足の形は完成するのです」とも言っている。これは当時すでに三分の説が存在し、孫権荊州攻略を依頼してそれを借用したのではないということである。(諸葛亮伝)
    周瑜は天下二分の計を説き、諸葛亮魯粛は天下三分の計を説いていた。
  3.  赤壁の合戦では周瑜劉備が一緒に曹操を撃破しており (呉志)、華容の戦役では劉備が単独で曹操を追撃しており (山陽公載記)、そののち南郡において曹仁を包囲したときも、劉備はやはり陣中に身を置いており (蜀志)、一度たりとも呉の兵力が単独で出されたことはなく、劉備が何もせずその成果を横取りしたわけではないのだ。 

劉備孫権に借りなんてないですよ。ということだろうか?
曹操荊州出兵から劉備を守り、兵も領地も嫁も、何から何まで世話してやった」などと言うのは孫呉による悪質な捏造である。
趙翼の説を採ればそうなる。
でも、糧秣は孫権に手配して貰ってたんじゃないのかなぁ・・・?

趙翼は、勝利への貢献度合いはほぼ50:50だよと、そういうことが言いたいんだと思う。
でもやっぱり食料のことが気になる・・・

208年 7月 曹操、兵を率いて南下開始 (荊州侵攻)          
  8月 劉表が病死          
  9月 劉琮、曹操に降伏          
    長坂の戦い 劉備 × vs 曹操
    魯粛孫権と同盟するように劉備に勧める。*1          
    劉備諸葛亮を使者として孫権の元に派遣する。*1          
    孫劉同盟締結          
    赤壁・烏林の戦い 周瑜劉備 vs 曹操 ×
    華容の戦い 劉備・(周瑜) vs 曹操 ×
    曹操曹仁を江陵に、楽進を襄陽に残して撤退。          
  南郡攻防戦 周瑜張飛 vs 曹仁 ×
  ? 荊州南部4郡 (武陵、長沙、桂陽、零陵) の戦い 劉備 vs 金旋 ×
            韓玄 ×
            趙範 ×
            劉度 ×

上表は赤壁の戦い近辺の出来事をまとめたものだが、こうしてみると孫権劉備は協力して事に当たっていたことが明白だと思う。

さて、戦が一段落したところで領地を見てみると

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まぁ。江夏郡南部は、建安13年 (208年) 孫権自ら指揮を執って、黄祖から奪っているけどね

劉琦・劉備の一人負けなのかな。
劉琦は、赤壁の戦いの直後、劉備によって荊州刺史に擁立されるが、209年に病没し、この後劉備孫権荊州占有権抗争が勃発する。

劉表荊州牧だった。
刺史にはしても牧にはしない劉備の対応は、「劉琦に軍権は渡さない」という意思表示なんだろうか?

ただ、周瑜の死後 (210年)、その任を魯粛が継ぐと、魯粛は江陵から陸口に退き、江陵を放棄した。放棄した理由はわからない。

魯粛を奮武校尉に拝し、周瑜に代えて兵を治めさせた。周瑜の手勢の四千余人、奉邑の四県もみな属した。程普に命じて南郡太守を兼ねさせた。
魯粛ははじめ江陵に駐まり、後に下って陸口 (湖北省咸寧市嘉魚) に駐屯した。
(裴注三国志 魯粛伝)


■ 敵も味方も評価した劉備
趙翼は続けて「曹操孫権がどれだけ高く劉備を評価していたかを挙げ、劉備荊州を領有したのは劉備の実力である」と論じた。

  1. 曹操を撃破したのち、劉備は京に参詣して孫権にまみえ、孫権は妹を彼に嫁がせた。周瑜は密かに上疏して劉備を京に留めるよう求めたが、孫権は聞き入れず、英雄とは長く手を取り合うべきだと考えた。
    これは劉備荊州にいて曹操の抑えとなってくれることを、孫権が期待したということである。 
  2. 曹操は逃走して華容の難所を抜けたとき、喜びながら諸将に「劉備は吾の同類
    であるが、ただ計略を思い付くのが少しばかり遅かったな」と言った (山陽公載記)。
    これは曹操劉備を英傑と認め、孫権を英傑とは認識していなかったということである。
    これは曹操が指折り数える者に劉備だけが入り、いまだ孫権には言及されなかったということである。
    まぁ、山陽公載記は、裴松之によれば、「穢雑虚謬 (わいざつきょびゅう)」と批判している。
    穢雑虚謬とは、下品でいい加減な言説。と言った意味だろうか?
    字面を見れば雰囲気が伝わってくる。
    山陽公載記の記載だから、これは眉唾と差し引く。
  3.  程昱は魏にいて劉備が呉 (京口) に入ったと聞いた。論者の多くは孫権が必ずや劉備を殺すであろうと言ったが、程昱は「曹公は天下に敵う者なく、孫権は対抗することができない。劉備には英名があり、孫権は必ずや彼を支援して我らを防ごうとするはずだ」と言った (程昱伝)。
    これは魏の人々もまた劉備だけを指折り数えて、いまだ孫権に言及していないということである。
  4.  兵力について論ずるならば、諸葛亮は初めて孫権に謁見したとき、「兵士のうち帰還した者 (長坂の戦い等の敗残兵) と関羽武装した精鋭は合わせて一万人になり、劉琦の戦士もまた一万人を下りません」と言っている。そして孫権の派遣した周瑜らの水軍もやはり三万人に過ぎず (諸葛亮伝)、孫権劉備の十倍の戦力を有していたとまではいかないのである。
    兵力はともかく、糧秣はどうしたんだろう?
    兵がいても食えないんじゃぁ仕方ないよね、その糧秣は孫権が提供してたと思うんだけど・・・。
    劉備は寄辺がなく、孫権の援助がなければ雲散霧消したであろうことは疑いようがないのに・・・・

    「ただ、劉備は兵を出して協力する。
    孫権は食料を出してくれ。」
    っていう条件ならバーターできるのかなぁ、とは思う。
  5.  劉表の長子劉琦はなお江夏にあり、曹操を破ったのち、劉備は劉琦を荊州刺史にするよう上表しているが、孫権は一度たりとも異論を唱えていない。
    荊州はもともと劉琦の土地だったからである。
  6.  劉備は同時に四郡を南征すると、武陵・長沙・桂陽・零陵はみな降服し、劉琦が死去すると、群臣は劉備を推戴して荊州牧とした (蜀先主伝)。
    劉備はそこで諸葛亮をやって零陵・桂陽・長沙の三郡を監督させ、その租税・賦役を収めて軍需物資に充てた (諸葛亮伝)。
    また関羽を襄陽太守・盪寇将軍として江北に駐屯させ (関羽伝)、張飛を宜都太守・征虜将軍として南郡に在留させ (張飛伝)、趙雲を偏将軍・領桂陽太守とし (趙雲伝)、将軍たちを派遣して各地に進駐させている。
    おそらく劉備の処置について最初から孫氏に 報告しなかったのは、もともと孫権の土地ではなかったからであろう。だからこそ劉備孫権に報告する必要はなく、孫権もまた劉備を阻害してこなかったのである。

 

張翼の結論
趙翼は以上のように論証した上で、「『荊州貸与説』は孫呉の捏造である」と結論付けている。

趙翼曰く、
 「 天下の形勢が定まると、呉の人々は赤壁の戦役を思い起こし、「劉備の勝利は、呉が兵力を貸したからこそ得られた」と言い出し、遂には「荊州は呉が所有すべきなのに、劉備が占拠してしまった」と言った。
ここに至って初めて『荊州貸与説』が提唱されたのである。
 そもそも協力して曹操に対抗したときを思い起こせば、劉備孫権に貸しがあり、孫権には劉備に貸しがなかったのだ。そのときの孫権は、ただ自分の危機を救うのに精一杯で、どうして荊州攻略の野心を持つことができたであろうか。
 (215年、荊州領有を巡っての争いが生じたとき、いわゆる単刀赴会) 関羽魯粛に対して言った、「烏林の戦役では、左将軍 (劉備のこと) は寝るときも具足を解かず、協力して曹操を打ち破りましたが、ただ働きをさせておいて一塊の土地さえ与えないとは道義に悖る」とは (魯粛伝が引く呉書)、これこそ永久不変の議論であろう。
 その後、呉・蜀が三郡を争奪することになったが、一転して湘水を境界として和議を結び、長沙・江夏・桂陽は呉に属させ、南郡・零陵・武陵を蜀に属させたのは、最も公平適切な取り決めであった。

江夏郡は先述の通り、建安13年 (208年) 黄祖を討って以来孫権が領有しているので、なんでここに出てくるのか不思議

 それなのに呉の君臣は、関羽の北伐の隙を突いて荊州を襲撃してこの地を占拠し、あろうことか荊州貸与説を捏造し、奪われたものを取り返したのだと主張するに至った。
 こんなものは呉の君臣による狡猾な詭弁に過ぎないが、荊州貸与という言葉だけが一人歩きして現在に伝えられている。荊州貸与は一つの物語として完成され、論破できないほど (思い込みは) 堅牢になった。そうした曲解が巡りめぐって蜀にも伝わっているが、それらは聞きかじりの議論なのである。」

というワケで、孫呉の本質は強盗である。としたい。
# まぁ、戦乱の時代なら仕方ないか・・・。

■ 荊州貸与論は暴論か、正論か

1. 劉琦は劉表の後継者だったのか?
 劉表は劉琮を後継者指名していた。

劉表の妻への愛は少子の劉琮に及び、後嗣にしようと考え、しかも蔡瑁・張允はその支党となり、かくして長子劉琦を出して江夏太守とし、人々はかくて劉琮を奉じて後嗣とした (裴注三國志 劉表伝)。

劉表は初めは劉琦が自分に似ているから愛したが、後妻の蔡氏の姪を劉琮に娶らせた事で蔡氏が劉琮を支持し、劉琦を事毎に讒言した。
蔡氏の弟の蔡瑁と、外甥の張允が寵遇された。劉琦は諸葛亮に諮り、殺された黄祖の江夏太守に転出した。 
劉表が歿すると劉琮は劉琦に侯印を授けたが、劉琦は怒って地に擲ち、喪に乗じて挙兵しようとした。たまたま曹操が新野に達したので江南に走った。 (後漢書 劉表伝)

曹操の軍が襄陽に到ると、劉琮は州を挙って降った。劉備は夏口に走奔した。(裴注三國志 劉表伝)

 赤壁の役の後、劉琦は劉備の上表で荊州刺史となり、明年に没した。(後漢書 劉表伝)

でも劉琦は権力闘争に敗れ、後継者指名から外れ江夏太守に転出される。
代わって、劉琮が後継者 (っぽいポジション) になるが、曹操の侵攻を受け、州を挙げて降伏してる。劉琮はその後青州刺史になっている。

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この時の各人の思惑は、
曹操「劉琮が降伏したことで、荊州も漢室の手に戻った。李立、とりあえず荊州刺史頼むわ。」
劉備「劉琮なんて群臣に誑かされただけだ。これからの荊州は劉琦様を統治するんだもん」
孫権「そうだな。劉琦様の統治に委ねよう (どうせすぐ死ぬだろう)。その後は・・・。
荊州は長江上流にあたり、首都防衛上の要地だから、直接統治こそが望ましいんだよ」
といった当りと推察する。
実際後世モンゴル軍が南宋を征服したとき、長江沿いに水軍を進め、南宋を攻略してるぜ。

正統性としては曹操の論が一番明快。荊州は漢室のもの。
ただ、劉表の死の混乱期に曹操の侵攻があったもんだから、劉表の後継者が誰か公にされていなかったことに劉備が乗じて劉琦を担ぎだした。ってことなんじゃないかと思う。

いずれにしても、張翼の「荊州劉表のもの」っていうのも全面的に賛成するには無理だけど、「孫権のものではない」ことを証明するには十分だと思う。

2. なぜ孫呉荊州の領有を主張したか?
孫呉の立場で考えれば、曹操に売られた喧嘩を買っただけとはいえ、曹操を追い出すのに相応の犠牲は払った。その分け前を要求するのは当然だと思う。
孫呉赤壁以前も荊州劉表と戦っており、荊州支配は孫呉の国策であったコトも無関係ではないだろう。

曹操の手前、声高に「分け前よこせ」と言えないから、劉琦が荊州を継承することはしぶしぶ認めたが、劉琦病没後、劉備荊州牧となって荊州を継承することは認め難いものだったと思われる。
よって、孫呉荊州を望むことには相応の理由があり、ある程度、納得できることだろう。


しかし、現実的に考えれば、劉備荊州牧となって、荊州を統治することは最善策であったと思われる。
趙翼も言っていたが、「劉表の官吏兵士のうち曹操軍から逃げ帰った者たちは、みな劉備に身を投じてきた」(裴注三国志 先主伝が引く「江表伝」)、「(新野から撤退する途中) 劉琮の側近や荊州人の多くが劉備に帰服した。当陽に至る頃には人々は十余万、輜重は数千輛となっており、一日の行程は十余里に過ぎなかった」 (裴注三国志 先主伝)。
との記載があることから、荊州の士人はもとより、荊州の民衆も劉備に懐いており、劉備荊州牧を推戴されるのは自然な流れと思われる。
そもそも孫権荊州の地を治めて、劉備より上手く統治できる保証なんてないのだ。

ちなみに劉備荊州牧推戴とその後について、裴注三国志の各伝によって記載が微妙に異なっている気がする (ニアンス的な意味で・・・。
まずは先主伝。

劉琦が病死し、群臣は先主を推して荊州牧とし、公安にて治めた。(先主伝)

 推戴したのは、(劉備の) 群臣と言うことになっている。

劉備が上表して孫権を行車騎将軍・領徐州牧とした。劉備は領荊州牧として公安 (湖北省荊州市) に駐屯した。(呉主伝)

 なんか、劉備孫権の部下であるかのよう・・・。

孫権周瑜を偏将軍に拝し、南郡太守を領ねさせた。(長沙の) 下雋 (湖北省咸寧市通城)・漢昌 (岳陽市平江)・劉陽 (長沙市瀏陽) と (南郡の) 州陵 (仙桃市) を奉邑とし、江陵に屯拠した。
劉備は左将軍・領荊州牧として (江陵の対岸の) 公安 (湖北省荊州市) にて治めた。(周瑜伝)

 周瑜伝でも同様。
ちゃっかり荊州の土地を周瑜に封じてるね。この4つの封邑が周瑜の死後魯粛に引き継がれる。
なんか呉書の記載だと、劉備を部下のように扱ってる気がするんだよなぁ・・・。

3. 荊州貸与説と魯粛
劉備京口に赴くき孫権に参詣すると、周瑜孫権に上疏してる。

劉備は梟雄の資質があり、しかも関羽張飛という勇猛無比の将を配下にしています。必ずやいつまでも人の下に屈して他人の命令に従っている者ではありません。
愚孝しますに、劉備を呉に留め置き、宮殿を築き、美女や愛玩物を多数集めてその耳目を娯しませ、関羽張飛を分けて別々の地方に配属し、私の様な者が彼らを使って戦いを進めれば、大事を定める事が出来ましょう。
(裴注三国志 周瑜伝)

 孫権はこの策を容れなかったが、妹 (いわゆる孫尚香) を劉備に嫁がせ、友好関係を保っている。もしくはアピールしてる。
この策は呂範も進言していたらしく、魯粛伝が引く「漢晋春秋」に記載がある。
ちなみに、龐統伝が引く「江表伝」には、龐統が、劉備を呉に留め置くように周瑜に献策したとある。だから諸葛亮は (劉備京口に赴くことに) 反対していたとの記載も見える。

ここで魯粛孫権に献策する。

 劉備荊州の都督にならせてほしいと求めた時、魯粛だけが、荊州の土地を劉備に貸し与え、共同して曹操に抗するのがよい。と勧めた。
曹操は丁度手紙を書いていたが、孫権劉備荊州の土地を分け与えて劉備の後ろ盾 になったことを聞くと、その筆を床に落とした
(裴注三国志 魯粛伝)

これが「荊州貸与説」の (時系列的な意味で) 初出だと思うんだけど、色々とアヤシイ。

まずは「劉備荊州の都督にならせてほしいと求めた時、魯粛だけが、荊州の土地を劉備に貸し与え」って部分。

1. 劉備は既に荊州牧なのに、どうして「都督にして欲しい」なんて言う必要があるの?
 また、劉備は既に荊州南部4郡を実行支配してるのに、都督を求める理由があるの。

劉備荊州統治に行き詰ってたならわかるけど (都督が軍司令官であることを考えれば、特に軍事的に行き詰ってた。もしくは軍事面での脅威があった)、もちろんそんな事実はない。
諸葛亮をやって零陵・桂陽・長沙の三郡を監督させ、その租税・賦役を収めて軍需物資に充ててた (裴注三国志 諸葛亮伝) ぐらいなんだもん。
また、荊州南部4郡を平定してから配下の諸将を各地に送っている。

2. 独立癖がある劉備が、どうして地位をねだるの?人となりに合わないんじゃねぇ?
  また、都督になれば立場的に孫権の優越的地位を認めることになるがそれでいいの?

劉表に身を寄せてた時代だって食客扱いだったし、孫権に何か役目・職権・地位官職をもらえば、それは孫権の優越的立場を認めることになる。
孫劉の関係って、あくまでも対等じゃなかったのかなぁ?
実質的に荊州牧の立場を捨ててまで、孫権の下に甘んじる必要ってあるの?

っていうあたりに凄く違和感を覚える。
多分これって、陳寿が「三國志 呉書」を執筆するに際して下敷きにしたのが、呉の朝廷が編纂していた「呉書」(韋昭 著) だったから、呉に都合よく書かれてただけじゃねぇ?
真に受けた陳寿もどうかと思うけど・・・。

実際は魯粛がおもんばかって、曹操に付け入る隙を与えないように知恵をつけた、平たく言えばペテンにかけたってことだと思う。
それは、孫呉に漂ってた「孫呉の分け前を寄越せ」ってのを「荊州の貸与」っていう風に誤魔化した。もしくは玉虫色に事だろう。
そして、それは劉備も了承していたところだろう。

曹操に付け入る隙を与えないためには、この時点でコトを荒立てることはできない。ってのが、孫劉両者の評通認識だったと思う。

----と言うのが私の解釈
----本動画では、この解釈を採用してます。

しかし、実際には劉備が借りていた可能性もある。

周瑜が死去した後、彼がかわって南郡太守の任にあたった。
孫権荊州を分割して劉備に与えると、程普は再び戻って江夏を収めることになった。(裴注三国志 程普伝)

※ 「孫権荊州を分割して劉備に与えると」は215年 単刀赴会のことだと思われる

 とか、

(周瑜が危篤に陥ると、孫権周瑜の上疏に従って) 魯粛を奮武校尉に任じ、周瑜に代わって兵を率いさせた。周瑜配下の軍勢四千余人と、所領の4県 (下雋・漢昌・劉陽と州陵) も、ともに魯粛に属することになった。また程普が南郡太守の職務を執ることが命ぜられた。
魯粛はもともと江陵に軍を置いていたが、のちに長江を下って陸口に駐屯した。(裴注三国志 魯粛伝)

と記載がある。

江陵は、周瑜が南郡攻防戦で曹仁から奪った江陵は、いつ劉備のものになったの?
魯粛は何故兵を引いたの?撤退したの?劉備が借りたんじゃないの?
しかし、

劉備益州を平定を完了すると、孫権は (貸し与えてあった) 長沙・零陵・桂陽の返還を求めた。 (裴注三国志 魯粛伝)

とあり、江陵は (南郡) は含まれていない。
これは実に不可解なことだと思う。
劉備が獲った、長沙・零陵・桂陽を返せと言い、周瑜が獲った江陵 (南郡) の返還は求めない。江陵は長江沿いの要地なのに、何故だろう?

荊州貸与説』にも一定の傍証らしいものが「三國志 呉書 (陳寿 著)」の中にも見受けられるが、「呉書」にしか書かれてないので何とも言えない。

もし、『荊州貸与説』を正するならば、
1. 長坂の戦いで曹操の追撃を振り切り、関羽と合流する。
2. しかし、襄陽、江陵など主要な要地はあらかた曹操の手にあり、兵を養うことに窮した。
3. それで、食料の問題を解決するため諸葛亮を使者とし、孫権に救援を求めた。
4. 孫権魯粛の意見を入れ、劉備と同盟した。
5. 赤壁曹操を破り、続く南郡攻略戦でも勝利を収めた。
 南郡攻防戦の最中、劉備周瑜の承認の元、荊州南部4郡の攻略に向かい、4郡を平らげた。(劉備孫権配下、もしくは、それに準ずる形での参戦である)
6. 劉琦を荊州刺史に上表。劉琦の死後、群臣によって劉備荊州牧に推戴される
7. 京口に赴き孫権に参詣するし、都督をねだる。なぜなら未だ食料供給に見通しが立たず、孫権の助力を必要としていたからである。
孫権魯粛の献策を受け入れて、荊州数郡を貸し与え、劉備軍の食料問題を緩和する。
8. 劉備益州を落とす。= 劉備軍の食料不足が解決される。
9. 劉備益州ろ獲って、孫権からの独立を画策する。
10. 孫権ブチ切れ。
11.単刀赴会で貸していた長沙・江夏・桂陽を取り戻す。
ってことになるだろうか。。。

 4. 単刀赴会
話は劉備京口孫権を参詣した時まで遡る。
この時孫権劉備にこんな提案をしていた。
孫権劉璋はバカだから、蜀を獲ろうと思うんだけど、どう思う?」
劉備劉璋はバカで間抜けなおたんこなすですが、私と同じく漢室に連なる身。それだけはご勘弁頂ければ幸いです」
孫権「うーん、そうか。残念だけど劉備がそういうんじゃ仕方ないね」

益州劉璋の統治は弛んで体を為していなかったことから、周瑜甘寧は揃って孫権に蜀を奪ってしまうことを勧めていた。孫権劉備にこのことを相談した。
劉備は密かに蜀を奪うことを考えていたため、心を偽って返答した。
「私と劉璋とは、ともに漢の宗室に連なる者として、先帝方の御霊威をお借りして漢朝を立て直したいと思っておりました。今劉璋は、陛下のお気持ちに沿わぬこととなり、私としてはただただ心をおののかせるばかりで、何もよく申し上げられないのですが、どうか彼のためにお目こぼしを願うばかりです。もしお許しが得られるのであれば、私は官冠を棄てて山林に隠居する覚悟です。(裴注三国志 魯粛伝) 

214年5月 劉備劉備は単独で劉璋を降伏させ、蜀を奪い取ってしまう (劉備の入蜀)。
これにブチ切れたのが孫権
7月 孫権劉備に「荊州を返せ (= 分け前をいい加減に寄越せ)」と要求したが、劉備の返答は「涼州獲ったら返すね」とバックレる気満々。
215年に入ると孫権は軍を動かし、荊州で孫劉両軍が衝突するに至った。

この年劉備が蜀を平定した。
孫権は、劉備益州を手に入れたことを理由に、諸葛謹を使者に立て荊州の諸郡 (長沙・零陵・桂陽) の返還を求めた。
しかし劉備は「いま涼州を狙ってるので、涼州を平定したら荊州をそっくり呉に与えよう」を言って拒絶した。
孫権は「借りたまま返すつもりがなく、上手く言って引き延ばそうとしているのだ」といって軍を動かした。(裴注三国志 呉主伝)

劉備は急いで公安に取って返し、また関羽も出陣した。
一方孫権魯粛呂蒙らに命じて荊州諸郡を攻めさせ、孫権自身も陸口まで出陣した。
交戦も少なからずあったのだが、それは省く。

赤壁の折は呉から一歩も動かなかった孫権だが、この事態においては陸口まで赴いている。
もう我慢できないという気迫の表れであろうか?
それとも、決済が必要となったとき、スピーディに処置できるようにとの判断だろうか?

益陽にて関羽魯粛によって会談 (単刀赴会) があったが、結局解決しなかった。

魯粛は益陽に軍を留めると、関羽と対峙し、会見を申し入れた。
それぞれの兵馬を百歩離れたところに留め、軍の指揮官だけが護身用の刀一つだけ身に着けて会見に臨んだ。
「もともと陛下がご慈悲の心をもって、土地を貴家に貸し与えられたのは、貴家が戦に敗れ、遠く身を寄せてこられて、身を立てるべき元手をお持ちでなかったからです。いま既に益州を手に入れられたのに、土地を奉還しようとのとのお気持ちもなく、三つの郡をだけ返すように求めたのに対しても、それを聞き容れようともしない」。
魯粛の言葉が終わらぬうちに、その座にあった一人が「土地と言うものは、徳ある者に帰するのであって、いつまでも同じ人物の物であるとは限らない」。
魯粛は声を荒げてその者を怒鳴りつけ、声も顔も極めて厳しかった。
関羽は刀を手に持って立ち上がると、「これはもとより国家に関することで、この者の関知するところではない」。目で合図してその者を去らせた。
劉備はこうしたことから、湘水を境とし、それ以東を呉に割譲して、双方の軍事衝突は収まった。(裴注三国志 魯粛伝)

また、

関羽 が「烏林 (赤壁) の戦役では、左将軍は自ら兵卒たちの隊伍の中にあって、寝る時も甲冑を外さず、力を一つにして魏を破ったのに、そうした働きが無視され、一塊の土壌すら与えられなかったうえに、今あなたがやってきて土地まで取り上げようとなさるのですか?」
魯粛 「そうではない。はじめて劉豫州を長阪でお会いしたとき、劉豫州の手勢は一部隊にも満たず、将来への展望は全くなく、意気も力尽き果てて、遠くに逃げ隠れたいとのみお考えであった。今日のような (事態の好転は) 事は望んでおられなかった。我が御主君は、劉豫州殿が身の落ち着け所すらない境遇を憐れまれ、土地とその他の人材を惜しみなく劉豫州殿に貸し与えられた。劉豫州殿が身を託すところを得て、困難を切り抜けられるようにと計られたのだ。
しかるに豫州殿は自分のことばかりを計り、表面を取り繕って、徳にもとり、誼に背いておられる。いま既に西方の州を手中に収めて拠り所を得られたのであるのに、さらに荊州の土地をも切り取って兼併してしまおうとなされている。こうしたことは、普通一般でも心がに咎めてようしないことだ。ましてや立派な人物たちの統率にあたる主君がやってよいことであろうか。
私は聞いている。貪欲なことをして義を蔑ろにすれば、必ず禍を招く道になるのだ、と。あなたは重要な任務を受けておられながら、道理を明らかにして自らの分を守り、正義によってこの時世を正して行こうとされることなく、貧弱な軍勢を恃んで力で事を決しようとしておられるのであるが、不正の軍には力が涌かぬという。何によって事を成し遂げられるおるもりなのか」。関羽は返答できなかった。(裴注三国志 魯粛伝がひく「呉書 (韋昭 著)」)

を託す所、土地や士人の力を愛さなかったのを矜愍し、(自らを)庇廕(庇護)できる場所を持たせて憂患を救済したのだ。

215年3月 曹操が漢中を攻め、張魯は降伏した (陽平関の戦い) すると、劉備は方針転換し、孫権と和睦した。この結果、湘水を境とし、それ以東 (江夏・長沙・桂陽) を呉に割譲して、双方の軍事衝突は収まった。


最近フィリピンでこんなニュースがあった。
新型コロナのワクチンを受けるために南シナ海を譲歩…フィリピン大統領、習近平首席に「SOS」 (2020/07/29 yahoo / 元記事 中央日報)

news.yahoo.co.jp

https://news.yahoo.co.jp/articles/c04d3b10ee89b85f66af412eabb29cf342c2dcc5

記事によると

ドゥテルテ大統領は「中国も、フィリピンも領有権を主張しているが、中国は武器 (武力) があり我々にはない。簡単に言えば、そのため中国がそこ (南シナ海) を支配している」と述べた。
また「われわれが (南シナ海を取り戻すためには) 戦争をしなければならないが、私はできない」として「他の大統領なら分からないが、私は (戦争を) できない。対応できない。それを喜んで認める」とした。

この発言を良く吟味すべきだと思う。
相手が既に実力行使、実効支配に出てきてる段階では、話し合いや言論などモノの役には立たないだろう。(実際に話し合いで荊州問題は解決していない)
荊州の場合では、それに加えて曹操の漢中侵攻が劉備にとっては凄いインパクトを持っていた。劉備は一転孫権との和議 (事実上の屈服) を余儀なくされた。

 
5. まとめ

(1)  まずは、動画な長くなってごめんなさい。
初めは30分ぐらいかなぁ・・・。と思ってたんだけど、収まらなかったね。
Youtubeで視聴する際は、長さが気になる方は再生速度を1.25倍~1.5倍に上げて、視聴下さるようにお願いします。

(2)  『荊州貸与論』は、正論とも暴論とも言えない。
まず、孫権には赤壁勝利の取り分を要求する権利があったことを確認しておきたい
荊州孫権の持ち物ではないが、だからといって劉備の持ち物とするには無理がある。
孫劉とも、ただ実効支配してただけだしな。
張翼のように、荊州が誰のものであるかを論じても意味はなく、強いて言えば曹操のモノだろう。
これをもって、もう暴論とは言えない。

しかし「荊州貸与」自体は趙翼が言う通り、呉の重臣らの捏造であっても驚かない。
なぜならば、
第一に、三国志の記述、そのものの信頼性に疑義がある。
荊州貸与説』は呉書の中にしか出てこないし、「三国志 呉書」は元々呉が編纂した
韋昭の呉書が下敷きになっている。いささか割り引く必要があるんじゃないだろうか?
荊州貸与説』は非常に蓋然性の高い説だけど、「赤壁の取り分よこせ」「劉備だけ
丸儲けかよ」っていう、呉の空気感、呉の重臣劉備への反発だって当然蓋然性は
高いと思う。
その空気感を受け、理論武装したのが『荊州貸与説』ではないだろうか?
だから『荊州貸与説』は、暴論とは言えないが、さりとて正論というには無理がある
と思うぜ。

 3. 孫劉関係のキーマンは魯粛
魯粛はリアリストで、孫権に簒奪を勧めた前科もある。

孫権魯粛に問うた。
「今、漢室は傾き、四方は乱れており、私は父兄が遺した事業を受け継ぎ、斉の桓公や晋の文公のような功績を挙げたいと願っている。君 (魯粛) は私のところに来てくれたが、どのようにして私を助けてくれるのだろうか?」
魯粛 「昔、高帝 (漢の太祖 劉邦) 義を尽くして楚の義帝に仕えようとされながらそれが出来なかったのは、項羽がそれを妨げたからです。今の曹操は昔の項羽のようで、将軍が桓公、文公のようになりたいと申されても、それは無理です。
私が推し量りますに、漢室の再興は不可能であり曹操もすぐには取り除けません。将軍にとっての最良の策は、江東を鼎峙し、天下の隙を見守ることです。こうした大方針さえ立てておけば、あれこれと思い悩むことはありません。なぜならば北方には誠に務めが多いからです。北方がそれに忙殺されている隙に乗じて黄祖を始末し、返す刀で劉表を伐ち、長江の流域を占拠したのち、帝王の号を建てて天下全土を支配するのです。
これこそが漢の高祖の事業です」
孫権は 「今は一地方にあって全力を尽くし、漢朝にお力添えしたいと願うのみだ。貴方の言われるようなことは、私の力が及びところではない」
(裴注三国志 魯粛伝)

 荊州問題について、と言うより劉備の処遇については魯粛が責任を負うてたんじゃないだろうか?
孫劉同盟の話を持ってきたのも、劉備に土地を貸し与えることを勧めたのも、話がこじれた後、会見 (単刀赴会) に赴いたのも全部魯粛
動画では、孫呉唯一にして随一の親劉備派としたが、魯粛のようなリアリストがそんな括りで論じられて良いわけではないと思う。
魯粛の言動の裏には冷徹な計算、実利があったと思う方が自然だろう。

しかし魯粛の思考 (交渉過程を含む) は呉書でしか確認できない。しかも呉書にはバイアスが掛かってるかもしれない。
魯粛との折衝において、劉備側に一貫したカウンターパートがいなかったことが惜し
まれる。

 4. 結局解決は曹操の漢中侵攻
「日本も中共に対して徹底交戦しろ」なんていうつもりはないけど、少なくともプーさんを国賓として招待するなんていう寝ぼけた融和策を執るべきでないと思う。
孫権がどうやって荊州を取り戻したか、それに学ぶべきだろうと思う。
そして、劉備のずる賢さ、したたかさにも学ぶ点は多いだろうな。

第14回 李孚


李孚 字は子憲。
裴注三国志では、李孚に関する記載は魏書の賈逵伝にある (・・・というかそこにしかない)。魏書3巻の145-148P

魏略の列伝には、賈逵、李孚、楊沛の三人の伝が一巻にまとめられているそうだ。
裴松之が注を付けなかったら、知られることがなかった人物かも知れないと思う。

動画で扱った李孚の内容は、裴注三国志の記述ほぼすべてである。

ほぼ訳 李孚 (三國志修正計画より)
結語部分は動画に収録し忘れました (テヘ

李孚の本姓は馮で、後に改めて李としたものである。

赤字部分は動画で触れ忘れた所です。


Youtube 李孚 7:48~曹操の応対は流石の器量と言うべきだろうと思う。
まぁ、曹操も平原城内の人心が定まらないことには頭を痛めていただろうが、案外ノープランだったのかな?
曹操のように、いちいち注文を付けずに仕事を任された時の李孚の心中は、いかばかりであっただろうか?


李孚は結構出世している。
気になるのは讒言されて閑職に回されていた時期があった。ということだ。詳しいことは分からないが、嫉妬・妬み、もしくは怨みを買ったのだろうか?
司隷校尉と言えば、李膺 (動画張邈参照)、李傕、曹操張飛などが務めた官職。
# まぁ、張飛は実質がともなっていなかったけど・・・

動画より詳しく説明すると司隷校尉の仕事は、司隷諸郡の監察を取り仕切り、法に違反した者を摘発することで、その対象は尊卑の区別はない。
#後漢・魏の首都 洛陽、前漢の首都 長安を含む地域を総攬していたわけだから、まぁ、すごいわな。

司隷校尉は地方官であると説明したが、首都近辺は朝廷直轄で中央官として扱われるという説もある。
# 本動画では、ちくま訳裴注三国志の記載に倣って地方官とした。


今回はこんなところで。

 




ゆっくり三国志 & 故事成語解説 囲魏救趙



動画中で説明した、曹操劉備の勝率について、裴松之三国志を参考にしてそれぞれを抜き出してみました。

まずは曹操から。

1 中平元年 (184年) 黄巾の乱 (長社の戦い) 朱雋・曹操 ○ vs 波才 (黄巾軍) ×  
2 初平元年 (190年) 禜陽の戦い 曹操 × vs 徐栄 (董卓軍) ○  
3 初平2年 (191年) 濮陽の戦い 曹操 ○ vs 白繞 ×  
4 初平3年 (192年) 東郡の戦い 曹操 ○ vs 于毒・眭固・於夫羅 ×  
5 初平3年 (192年) 寿張・済北の戦い 曹操 ○ vs 青州黄巾軍 ×  
6 初平3年 (192年) 袁紹連合対公孫瓚連合戦 袁紹曹操連合 ○ vs 公孫瓚等 (劉備リュウビ含フクむ) ×  
7 初平4年 (193年) 匡亭・封丘・襄邑・太寿・寧陵の戦い 曹操 ○ vs 袁術  
8 初平4年 (193年) 徐州の戦いI 曹操 ○ vs 陶謙 ×  
9 興平元年 (194年) 徐州の戦いII 曹操 ○ vs 陶謙 ×  
10 興平元年 (194年) 濮陽の戦い 曹操 △ vs 呂布 △   
11 興平2年 (195年) 定陶の戦い 曹操 ○ vs 呂布 ×  
12 建安元年 (196年) 武平の戦い 曹操 ○ vs 袁嗣 (袁術軍) ×  
13 建安元年 (196年) 如南・潁川の戦い 曹操 ○ vs 何儀等 (黄巾残党軍) ×  
14 建安元年 (196年) 梁の戦い 曹操 ○ vs 楊奉 ×  
15 建安2年 (197年) 宛の戦い 曹操 × vs 張繡 ○  
16 建安2年 (197年) 舞陰の戦い 曹操 ○ vs 張繡 ×  
17 建安2年 (197年) 陳の戦い 曹操 ○ vs 橋蕤等 (袁術軍) ×  
18 建安2年 (197年) 湖陽の戦い 曹操 ○ vs 鄧済 (劉表軍) ×  
19 建安3年 (198年) 安衆の戦い 曹操 ○ vs 張繡 ×  
20 建安3年 (198年) 下邳の戦い 曹操 ○ vs 呂布 ×  
21 建安4年 (199年) 射犬の戦い 曹操 ○ vs 薛洪 ×  
22 建安5年 (200年) 徐州の戦い 曹操 ○ vs 劉備 ×  
23 建安5年 (200年) 白馬の戦い 曹操 ○ vs 顔良 (袁紹軍) ×  
24 建安5年 (200年) 延津の戦い 曹操 ○ vs 文醜 (袁紹軍) ×  
25 建安5年 (200年) 官渡の戦い 曹操 ○ vs 袁紹 ×  
26 建安6年 (201年) 倉亭の戦い 曹操 ○ vs 袁紹駐屯軍 ×  
27 建安7年 (202年) ? 曹操 ○ vs 袁譚袁尚 ×  
28 建安8年 (203年) 黎陽の戦い 曹操 ○ vs 袁譚袁尚 ×  
29 建安9年 (204年) 武安 (毛城) の戦い 曹操 ○ vs 尹階 (袁尚軍) ×  
30 建安9年 (204年) 邯鄲の戦い 曹操 ○ vs 沮鵠 (袁尚軍) ×  
31 建安9年 (204年) 祁山の戦い 曹操 ○ vs 袁尚 ×  
32 建安9年 (204年) 鄴包囲戦 曹操 ○ vs 審配 (袁尚軍) ×  
33 建安10年 (205年) 南皮の戦い 曹操 ○ vs 袁譚 ×  
34 建安10年 (205年) 幽州の戦い 曹操 ○ vs 趙犢等 ×  
35 建安11年 (206年) 壺関の戦い 曹操 ○ vs 高幹 ×  
36 建安12年 (207年) 柳城の戦い 曹操 ○ vs 烏丸・袁尚連合軍 ×  
37 建安13年 (208年) 赤壁の戦い 曹操 × vs 孫権劉備連合軍 ○  
38 建安16年 (211年) 潼関の戦い 曹操 ○ vs 馬超韓遂等 ×  
39 建安18年 (213年) 濡須口の戦い 曹操 ○ vs 公孫揚 (孫権軍) ×  
40 建安19年 (214年) 孫権征討 曹操 △     vs 孫権 △   
41 建安20年 (215年) 対氐戦 曹操 ○ vs 氐王竇茂 ×  
42 建安20年 (215年) 陽平の戦い 曹操 ○ vs 張魯 ×  
43 建安22年 (217年) 濡須口の戦い 曹操 ○ vs 孫権 ×  
44 建安22年 (219年) 漢中攻防戦 曹操 × vs 劉備  

曹操の生涯戦歴は、44戦 38勝 4敗 2分、勝率8割6分4厘。

あっ、彭城の戦いが抜けれた。
彭城の戦いは

19' 建安3年 (198年) 彭城の戦い 曹操 ○ vs 呂布 ×  

19番に入ります。

あーー。また抜けてたなぁ

11' 興平2年 (195年) 雍丘包囲戦 曹操 〇 vs 張超 (張邈軍) ×


というわけで修正すると、46戦 40勝 4敗 2分、勝率8割7分0厘です。
# 動画の方は未修正です。あしからずw


次に劉備

1 中平元年 (184年) 黄巾の乱(幽州の戦い) 鄒靖 (劉備含む) ○ vs 黄巾軍 × 参加しただけ?
2 中平元年 (188年) 下邳の戦い 毌丘毅・劉備 ○ vs 黄巾残党 ×  
3 初平3年 (192年) 高唐の戦い 劉備 × vs 賊軍 (黄巾残党?) ○  
4 初平3年 (192年) 袁紹連合対公孫瓚連合戦 公孫瓚等(劉備含む) × vs 袁紹曹操連合 ○  
5 興平元年 (194年) 徐州の戦い 陶謙劉備 × vs 曹操  
6 建安元年 (196年) 盱胎・淮陰の戦い 劉備 △ vs 袁術 △   
7 建安元年 (196年) 徐州の戦い 劉備 × vs 呂布  
8 建安元年 (196年) 広陵の戦い 劉備 × vs 袁術 (英雄記より)
9 建安元年 (196年) 小沛の戦い 劉備 × vs 呂布  
10 建安2年 (197年) 徐州・揚州の戦い 劉備 ○ vs 揚奉・韓暹 ×  
11 建安3年 (198年) 徐州の戦い 劉備夏侯惇 × vs 高順 (呂布軍) ○  
12 建安4年 (199年) 徐州の戦い 劉備 ○ vs 劉岱・王忠 (曹操軍) ×  
13 建安5年 (200年) 徐州の戦い 劉備 × vs 曹操  
14 建安5年 (200年) 延津の戦い 文醜劉備 (袁紹軍) × vs 曹操  
15 建安5年 (200年) 許周辺の戦い 劉備・劉辟 (袁紹軍) × vs 曹仁 (曹操軍) ○  
16 建安5年 (200年) 汝南の戦い 劉備・龔都 (袁紹軍) ○ vs 蔡陽 (曹操軍) ×  
17 建安6年 (201年) 汝南の戦い 劉備 (袁紹軍) × vs 曹操  
18 建安6年 (201年) 博望の戦い 劉備 (劉表軍) ○ vs 夏侯惇于禁 (曹操軍) ×  
19 建安13年 (208年) 長板の戦い 劉備 × vs 曹操  
20 建安13年 (208年) 赤壁の戦い 孫権劉備 ○ vs 曹操 ×  
21 建安13年 (208年) 荊州南四郡の戦い 劉備 ○ vs 金旋等 ×  
22 建安17年 (212年) 涪城の戦い 劉備 ○ vs 劉璝等 (劉璋軍) ×  
23 建安19年 (214年) 雒城の戦い 劉備 ○ vs 劉循等 (劉璋軍) ×  
24 建安19年 (214年) 成都包囲戦 劉備 ○ vs 劉璋 ×  
25 建安24年 (219年) 定軍山の戦い 劉備 ○ vs 夏侯淵 (曹操軍) ×  
26 建安24年 (219年) 漢中攻防戦 劉備 ○ vs 曹操 ×  
27 章武2年 (222年) 夷陵の戦い 劉備 × vs 陸遜 (孫権軍) ○  

劉備の生涯戦歴は、27戦 13勝 13敗 1分、勝率4割8分1厘。

武帝紀と先主伝を参考に抜き出したんだけど、三国志の伝は・・・、例えば武帝紀ならば、曹操が勝った戦いは掲載するけど、負けた戦いは書かない。もしくは最小限の記述に留める。って特徴があるので上記の数字はあくまでも参考記録にして欲しいです。

袁術と戦った匡亭・封丘・襄邑・太寿・寧陵の戦いを5戦とすれば、曹操の勝率はさらに上がるし・・・。まぁ、キリがありません。